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モンゴル軍は、イスラム(アラブ)を征服したのに何故インドは侵略しなかったんです...

esz********さん

2019/2/1021:30:07

モンゴル軍は、イスラム(アラブ)を征服したのに何故インドは侵略しなかったんですか?

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did********さん

2019/2/1111:58:24

「モンゴル軍は、イスラム(アラブ)を征服したのに」
とお書きですが、それは正しくありません。
確かにチンギス・ハーンは中央アジアとイランを征服しましたが、
それは当地を支配していたホラズム・シャー朝の支配体制が大変
脆弱であったためです。
当時のホラズム・シャー朝は(決して新興国ではありませんが)
急激に拡大して帝国を築き上げていましたが、
その内実は支配下の諸部族が互いに反目しあう状態だったのです。
そこで、
モンゴル軍が侵入した際、帝国は一気に瓦解してしまったのです。
しかしこの時、チンギス・ハーンは、
ホラズム・シャー朝の皇子ジャラール・ウッディーンを取り逃がし、
(アフガニスタン作戦が失敗に終わったこともモンゴル軍がインド
に手を出しにくかった要因の一つとも考えられます)
その後の抵抗を許してしまいます。
戦の天才であるジャラール・ウッディーンがいる間は、
インド侵攻は躊躇われたことでしょう。
10年後、チョルマグン・ノヤン率いるタマ軍が
ジャラール・ウッディーンを追い詰め、王朝は滅亡します。
そのため、更なる西進が可能になったモンゴル軍は、
1243年、キョセ・ダウの戦いでルーム・セルジュク朝軍を撃破し、
アナトリアのイスラム勢力はモンゴルに帰順します。
ところが、
この時点に至ってもまだモンゴル軍は、
すっかり弱体化していたはずのアッバース朝を攻撃することができず、
それどころか、イランの山城から暗殺者たちを放っていたニザール派
(イスラム教シーア派の一派であるイスマーイール派の分派)すらも
討滅することができなかったのです。
そして、モンケが第4代大ハーンに即位することでようやく、
帝国を挙げての征服活動を本格的に開始することができるようになり、
モンケの命令で皇弟フレグが征西に着手します。
フレグは1256年に二ザール派を討滅し、
1258年にアッバース朝を滅ぼしますが、
1259年にモンケが死んだため、フレグの本隊は帰還してしまいます。
そのため、
モンゴル軍はアイン・ジャールートの戦い(1260年)でマムルーク朝
に敗北するのです。
それ以後、
フレグはイランで自立し、イル・ハーン国(フレグ・ウルス)が成立し、
シリアを巡ってマムルーク朝と対立しますが、
これを征服することはできませんでした。
勿論、エジプト・リビア・モロッコなどアラブの諸地域には、
モンゴル軍は全く手を出せませんでした。
(この時期、モンゴル軍に負けて逃げてきたモンゴル系やトルコ系の
遊牧民族の兵士たちがマムルーク朝の軍隊に加わってその強化を助けた)


一方、「インドは侵略しなかった」というのも事実に反しています。

ホラズム・シャー朝の皇子ジャラール・ウッディーンをインドで追跡した
バラ・チェルビは、ムルターンなどの都市を攻撃し、ラホールを略奪して
います。これを皮切りに、モンゴル軍は何度もインドを侵略しています。

1235年、モンゴル軍はカシミール地方に侵入し、
ダルガチ(行政長官)を駐在させてその地方を支配下に置きます。
同時に、
将軍パクチャクがペシャワールに侵攻し、各部族を打ち破ります。

1241年、モンゴル軍はインダス渓谷へ侵入し、ラホールを包囲します。
しかし、第2代大ハーンのオゴデイが亡くなったために撤退します。

1254~55年、
カシミールの王がダルガチのオトチを殺害して反乱を起こします。
そこで、将軍サリがカシミールに侵攻し、王を殺して反乱を鎮圧し、
当地をモンゴル帝国の支配下に置きます。

1257年、シンド州の知事は全州をフレグに差し出し、
デリー・スルタン朝の君主からの保護を求めます。

1257~58年、サリ・ノヤンがムルターンを武装解除します。

ここまでの流れを見ますと、
モンゴル帝国によるインド征服も可能であったかのように思えます。
しかし、フレグはシリアや西南アジアでの征服活動に注力し、
インド侵攻は中断されてしまうのです。
そして上述の通り、モンケが死去し、征西自体が頓挫し、
その後は帝位継承戦争が始まってしまうのです。
更に、クビライが第5代大ハーンの位に就くと、
モンゴル帝国は四ハン国が緩やかに結びつく連合国家となり、
帝国を挙げて行う大征服が困難になってしまったのです。

それ以後の事情については、
Wikipediaの「モンゴルのインド侵攻」の項目を御覧ください。

なぜモンゴル軍は何度もインドに侵攻しながら征服することが
出来なかったのかと言えば、
それはやはり、北インドを支配していたデリー・スルタン朝の勢力を
破ることが出来なかったためでしょう。
デリー・スルタン朝はイスラム系の王朝ですので、
その点でも、
「モンゴル軍はイスラムを征服した」という見方は誤りです。
デリー・スルタン朝の5王朝の内、
4つの君主は全てトルコ系であり、その軍隊にも、
トルコ系遊牧騎馬民族出身の(つまり、モンゴル軍の戦法
に慣れている)兵士たちが多くいたのです。

もっとも、
他の回答者さんたちが書いておられる理由も重要です。

インドの気候風土がモンゴル高原で育ったモンゴル人にとって
過酷なものであったことは確かです。
インドを征服してムガル帝国を打ち立てたバーブルは、
中央アジアのフェルガーナ出身ですが、
彼はインドの気候をひどく嫌っていました。
(だから本来は中央アジアにいたかったが、
ウズベク人に二度もサマルカンドを奪われ、
仕方なくインドに転進したのが結果的に功を奏した)
バーブルはチンギス・ハーンの末裔であり、
そのためにその王朝は「ムガル朝」と呼ばれているのですから、
時間がかかりすぎているとは言え、
結局モンゴル軍はインドを征服したのだと言えるかも知れません。

インドを攻略する必要性が低かったかどうかは疑問です。
現代風に言えば「コスパが悪かったから」とは言えそうですが、
実際に何度もインドに侵入している以上、
出来ればインドを攻略したのではないでしょうか。
時代が異なりますが、アフガニスタンと西イランに栄えた
ガズナ朝の君主は、何度もインドに侵入しながら、
そこでは略奪するだけで征服しようとはしませんでした。
結果的にそうなったというのではなく、
それがガズナ朝のポリシーだったのです。
ただ、それはガズナ朝がイスラム系の王朝であり、
異教徒であるインド人を治めるつもりが無かったということ
であって、
それがモンゴル帝国の場合にも当てはまるとは言えないでしょう。
「シルクロードから外れている」のは確かですが、
インド全域を征服すれば海の道にアクセスできる訳ですから、
モンゴル軍がインドを侵略しなかった理由にはならないと思います。
ただ、カイバル峠を越えてインドに侵入するのは、
かなり大変だったに違いありません。

  • did********さん

    2019/2/1112:23:34

    訂正です。

    ×「アフガニスタンと西イランに栄えたガズナ朝」
    ○「アフガニスタンと東イランに栄えたガズナ朝」

    東西を間違えていました。済みません。

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質問した人からのコメント

2019/2/14 06:44:29

回答ありがとうございます。
詳しくありがとうございます。

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bay********さん

2019/2/1108:04:16

インドを侵略する必要性が低かったから。
モンゴル帝国の版図は交易路に沿って拡大しているのですが、インドはその交易路(シルクロード)からズレている上に地形的に難しい。

大軍をインドに入れるには危険なカイバル峠しかないですからね。

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goo********さん

2019/2/1021:49:00

インドは気候風土がモンゴル人に合わなかったからだと思います。途中にヒマラヤなど天然の要害となる山岳地帯もありますし。大軍を派遣するには不利です。

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