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植民地時代に、どうして北アフリカに住むアフリカ人は奴隷にされなかったのですか...

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ID非公開さん

2019/2/2413:20:27

植民地時代に、どうして北アフリカに住むアフリカ人は奴隷にされなかったのですか?

たまたまですか?

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na_********さん

2019/2/2414:04:19

・リスクが高い事
・コストがかかる事
が理由です。

植民地時代の前半は、北アフリカは、オスマン朝の勢力圏で、簡単にオスマン朝の住民を奴隷にできませんでした。
オスマン艦隊に発見されれば、奴隷船など簡単に撃破されてしまいます。

北アフリカ地域は、文化度も高く、サハラ以南のように、ガラス玉や鉄砲で奴隷を購入することはできませんでした。
そのため、奴隷を仕入れるコストがサハラ以南に比べ、格段に高くなり、取引上おいしくありませんでした。
また、地中海を航行する船と、外洋航行する船とは、異なる船が使われます。
そのため、北アフリカで奴隷を仕入れた場合、途中で外洋船に積み替えが必要になってしまいます。
積み替えの港湾を用意して、外洋船に積み替えるのであれば、直接外洋船で乗り付けられるサハラ以南のほうが、コスト的に有利になります。
奴隷船での奴隷の死亡率が高く、2割~3割の奴隷が奴隷船内で死亡していたそうです。
3割の死亡ですと、儲けが完全に無くなるため、奴隷の死亡を減らすために、一挙に外洋船で運ぶほうが、利益が出ます。

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tik********さん

2019/2/2421:02:54

北アフリカは、ナイル川流域や海岸でなければ、
無人の砂漠です。

狩猟採集の熱帯アフリカの黒人原始人が、温帯へ移動するには、
水のほかに、衣服や家が、必要です。
川や海岸に沿い、熱帯から温帯に進出して、
コーカソイドやモンゴロイドが生まれました。

雨の少ない土地に適応したコーカソイドよりも、
雨の多い東アジアに適応したモンゴロイドのほうが、
新しく分化したと、言われています。

同様に、エジプトやメソポタミアよりも、
インドの現代人のほうが、遺伝的に古く、
人類は、インドからエジプトやヨーロッパのほうへ、
棲息地を広げたと、言われています。

古代インドでは、
熱帯の黒人が、温帯に進出して、白人が生まれたので、
白黒混血になりました。

温帯の北アフリカの川や海の沿岸に定住したのも、
エジプト人やギリシャ人やフェニキア人のように、
白黒混血でなければ白人や白黄混血であり、
コーカソイドです。

黄色のモンゴロイドは、
ベーリング海峡を歩いて、アメリカ大陸に移動したように、
北や東に移動したコーカソイドから生まれましたので、
新世代の人種です。

北アフリカのナイル川下流や地中海沿岸に
黒人が暮らしていた可能性があるのは、
10万年以上前ですから、狩猟採集時代です。
その痕跡から人種を識別することは、できません。

人種識別可能な北アフリカの人類は、
白黒や白人や白黄などの、コーカソイドが先住民です。
ニグロでありません。

不適切な内容が含まれている可能性があるため、非表示になっています。

投稿内容に関する注意

cel********さん

2019/2/2415:48:54

ひょっとして、誤解がありませんかね…

英国などの奴隷商がアフリカから奴隷をアメリカ大陸などに大量に送っていたのは、アフリカの植民地化が本格化する《前》ですよ。

~~

百科事典マイペディアの解説
大西洋奴隷貿易【たいせいようどれいぼうえき】
15世紀の大航海時代とともに始まって16世紀に本格化し,19世紀末期まで続いたヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易。この間,セネガル以南のアフリカ西海岸を下ってインド洋側のモザンビークにいたる地域から1000万とも1500万ともいわれるアフリカ人が奴隷として輸出された。奴隷は銃,酒などと交換に現地首長から奴隷商人に引き渡された。このため奴隷獲得を目的とした部族間の戦いも盛んになり,社会の荒廃が進んだ。一方,ヨーロッパ人は南北アメリカ,カリブ海地域でプランテーション労働力などとして奴隷を売却し,砂糖,綿花などの植民地産品を購入する三角貿易を成立させた。19世紀に入ると,1807年に英国,1808年に米国,1814年にオランダ,1815年にフランスが奴隷貿易を禁止し,特に英国は強大な海軍力をもって大西洋上でのパトロールに努めたことなどもあって,奴隷貿易は衰退したが,それがほぼ終息したのは19世紀末期であった。

~~

一方、アフリカ分割は…

~~

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
アフリカ分割
アフリカぶんかつ
Partition of Africa
近代ヨーロッパ諸列強のアフリカ大陸に対する進出と植民地化をいう。1870年代のいわゆる帝国主義時代の幕開けは,科学技術の発達や医学の進歩と相まって,新たな原料供給地や商品・労働市場としてのアフリカに,列強の大きな関心を集めることとなった。19世紀末までのほぼ 25年間のうちに,東はエチオピア,西はリベリアが独立国として残ったほかは,アフリカ大陸のほとんどすべてが列強の植民地として分割された。

~~

…とある様に、19世紀後半の事です。

ザクッと言って、大西洋奴隷貿易の奴隷は、ヨーロッパ諸国がアフリカの沿岸部に貿易基地を持っているぐらいの頃に、《まだ植民地化していない》地域の首長から奴隷商人が戦争捕虜などを買って送ったものです。

東アフリカや西アフリカが大量の奴隷の供給地になったのは、政治的な統一が進んでおらず、敵対する部族を大量に奴隷にする、ってな事が行われていたからです。むしろ、奴隷商人の活動によって、それが促進された、と言っても良いでしょう。
北アフリカにも奴隷はいたし、ヨーロッパの奴隷商人がそれを買う事も勿論出来たけど、ずっと前から政治的統一が進んでいたので、量の点では大量供給源には到底なり得ませんでした。

ヨーロッパによるアフリカの本格的な植民地化以降の、例えばコンゴがベルギー国王の私領だった19世紀終わり近くから20世紀初めにかけて行われたゴムの強制採集を、《比喩的な意味》で奴隷と呼ぶ事は出来るでしょう。

が、総じて言えば、ヨーロッパ人はアフリカを植民地にしてそこの住民を奴隷にはしていませんよ。

sa3********さん

2019/2/2414:39:10

中世の時代はオスマン・トルコが強くて、地中海沿岸のヨーロッパ人が拉致されて、北アフリカで奴隷として酷使されていました。古代ローマ帝国で使われていた浴場が奴隷の収容場所で、奴隷の管理人は奴隷が必要な人たちから料金をもらい、働かせていました(家事労働などで個人宅に売られていた人たちもいますが)、沢山の労働者が必要な肉体労働系はリースだったようです。

そのようなヨーロッパ人の方が弱い状況で北アフリカの住民を奴隷にはそうそうできませんでした。もちろん海戦で勝ち、拿捕した海賊を奴隷商人に売るようなことはあったでしょう。

twe********さん

2019/2/2414:33:28

地中海沿岸は先進地域だったんだけど?(・o・)

返信を取り消しますが
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dom********さん

2019/2/2413:26:31

欧州が北アフリカに進出した時期はすでに奴隷制が廃止されつつある状況だからです。
また北アフリカの人間はサハラ砂漠以南と違って黒人ではありませんし。

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