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足利尊氏が護良親王を鎌倉に幽閉していたのは何故ですか?そしてその後護良親王は...

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ID非公開さん

2019/3/716:39:20

足利尊氏が護良親王を鎌倉に幽閉していたのは何故ですか?そしてその後護良親王は直義によって殺害されてしまいますが何故でしょうか?

中先代の乱の成り行きと共に教えて頂けると嬉しいです。

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zeu********さん

2019/3/810:01:36

尊氏が幽閉していたのではなくて、後醍醐天皇の命により鎌倉に軟禁されていたというのが正しいです。

護良親王は元弘の変以降も倒幕運動を繰り広げ、楠木正成とともに倒幕ののろしをあげた血気盛んな皇子です。
後醍醐天皇はこれにより鎌倉幕府より流刑に処せられた隠岐を脱出、足利尊氏の六波羅探題攻撃により入京を果たしました。

その後、護良親王は征夷大将軍に叙せられることを後醍醐天皇に要求し、やむなくこれを認めます。
しかし、それ以降も建武政権の足を引っ張ることを繰り返したため、さすがに父親である後醍醐天皇も護良親王をもてあまし、鎌倉に遠ざけ軟禁しました。

そんな中、死んだ北条高時の遺児である北条時行が諏訪の軍勢を引き連れて、手薄となった鎌倉に攻め込んで来ます。これが中先代の乱です。

鎌倉にいたのは尊氏の弟である足利直義。
北条時行に突如、大軍で鎌倉を急襲された直義はなす術がありません。

鎌倉を撤退するにあたり、北条時行勢に護良親王を奪取されたら非常に危険なことになると考えた直義は独断で護良親王を殺害しました。

この時、足利尊氏は弟の直義救出のため後醍醐天皇に出陣の裁可を願い出ますが、足利反乱の恐れありと噂されていたため天皇は許可をしぶります。

そして、何とか後醍醐天皇の許可を得て、弟の直義のいる鎌倉に駆けつけ、北条時行軍を撃退すると、弟直義から

「やむなく護良親王を殺害した」

と聞かされます。
父親の後醍醐天皇により軟禁していたとはいえ、混乱に乗じて足利が皇子を殺害したとなりますと、もはや言い訳が立ちません。

直義の護良親王殺害により、足利尊氏は建武政権への反旗を翻すことを決意しました。

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質問した人からのコメント

2019/3/11 07:40:39

とても分かりやすいです!
ありがとうございます。

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hir********さん

2019/3/800:08:36

>足利尊氏が護良親王を鎌倉に幽閉していたのは何故ですか?

少し流れを書きます。

鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇を頂点とする「建武の新政」が始まりました。
護良親王も京都に滞在し、やがて「将軍宮」と自称するようになりました。
これは
「後醍醐天皇の下で全国の武士を統括するのは自分である」
「次期征夷大将軍は自分である」

という護良親王の強いアピールでもあったわけですが、
その本意は全国の武士に人気がある足利尊氏に対抗する事であったと思われます。

ところが、後醍醐天皇にとっては「将軍宮」というのはあまり歓迎できないものでした。
なぜなら後醍醐天皇が行いたいのはあくまでも「親政」だからです。
つまり護良親王では無く自分が最高司令管として軍勢を所持・統括したかったわけです。
逆に言えば自分以外の人物が強力な軍事力を持つ事を嫌がったのです。
だからこそ、足利尊氏や護良親王に征夷大将軍の称号を与えなかったのです。

そして後醍醐天皇は、護良親王に対して再び比叡山に戻り僧になるように勧告したのですが、もちろん護良親王はそれに従いませんでした。
それどころか自分の支持者が多い(鎌倉幕府打倒に協力した)奈良県の吉野地方に行き軍勢を集め始めました。

これに困った後醍醐天皇は、護良親王を「征夷大将軍」とする事で京都へ呼び戻したのです。
しかしわかると思いますが、こんなやり取りをしていたら、もはや後醍醐天皇と護良親王の間には波風が立ち、亀裂が生じ始めていた事でしょう。
そして約2か月後には、後醍醐天皇は護良親王を「征夷大将軍」から解任してしまうのです。

またこの前後には護良親王は足利尊氏の打倒に向けて「令旨」を乱発し始めていました。
これは天皇方の最高の命令書である天皇からの「綸旨」に次ぐ命令書に当たっていました。

鎌倉幕府の打倒戦である「元弘の乱」の時、後醍醐天皇は一時隠岐の島へと配流されていました。
そして彼が隠岐の島から脱出するまでは護良親王が全国の各勢力らに対して
「令旨」を発行して倒幕戦を呼びかけていました。
しかし現在は後醍醐天皇が京都にいます。
それを飛び越えて勝手に「令旨」を発行するのは問題もありました。

しかし護良親王にとっては、それほど足利尊氏を建武政権を脅かす人物であると危険視していたのでしょう。実際に護良親王は足利尊氏を暗殺しようとする動きも見せていました。

しかし足利尊氏がその状況をを放置している訳がありませんでした。
ここで『太平記』と『梅松論』とでは少し違った経緯を経て護良親王は逮捕され、
やがて鎌倉へ罪人として送られて幽閉されてしまう事になりました。


『太平記』によると
護良親王は足利尊氏の暗殺を企てて、配下の僧兵らを集めて京都市中で辻斬りをおこなったりと乱暴な方法を採用した為に足利尊氏側に付けこまれてしまいます。

更にダメ押しに、尊氏は後醍醐天皇の寵姫である阿野廉子にも協力を仰ぎます。
阿野廉子にとって護良親王は後継者争いにおいて自分の生んだ皇子たちのライバル・邪魔者でした。

その阿野廉子が
「護良親王は兵を集めて後醍醐天皇に謀反を企んでいる」
「護良親王は素行不良者である」

と後醍醐天皇へと讒訴を行い、それにより護良親王は逮捕されてしまった。


また『梅松論』によると

後醍醐天皇自身が新田義貞や楠木正成らに足利尊氏を討伐する密命を下した。
しかし足利尊氏側の実力と警戒が強い事もあり計画はうまく進んでいなかった。
そしてこの状況に焦れた護良親王は「令旨」を発して足利尊氏打倒の兵力を集め始めた。

そしてこれに対抗して足利尊氏も兵を集め始めた。
更に足利尊氏は入手した「令旨」を証拠品として、後醍醐天皇に謁見の上で問い正したところ

後醍醐天皇
「これは、護良親王が独断でやった事で、朕には預かり知らぬ事である」

と答えて、護良親王の逮捕と鎌倉への護送を承諾した。

という感じになっています。


この様に、護良親王を鎌倉への護送・幽閉は『梅松論』の方が説明がつき易いかも知れません。
後醍醐天皇は、護良親王に責任を全て押し付け、自分の責任逃れに必死であり、
護良親王の逮捕と鎌倉への護送という尊氏側の無茶ぶりな要求にも断り切れなかったのではないか?というような予測もできる訳です。


>護良親王は直義によって殺害されてしまいますが何故でしょうか?

やはり1番の理由は、北条時行らの鎌倉幕府残党勢力と護良親王が手を組んだ場合、足利尊氏側にとって脅威になる可能性もあったからでしょう。

実際問題として実現性があったかはわかりませんが、
先の鎌倉幕府は頼朝からの直系は3代で絶えてしまいました。
その後は京都から天皇の皇子をお飾りの将軍を迎えて

トップ 宮将軍
NO.2 執権(北条氏)

という組織でした。

つまり宮将軍に護良親王が収まれば、名目上は見事に鎌倉幕府復活の形ができるわけです。
北条時行らの鎌倉幕府残党勢力と護良親王は、足利尊氏を敵視しているという一致点があることから、それを考えた足利直義が気をまわして護良親王の殺害を家臣に指示したという事です。

まぁ、いずれにしても推測の域を出ないわけですが…。


>中先代の乱の成り行きと~

「中先代の乱」について


当時の建武政権においては大規模なクーデター計画が進行していました。
後醍醐天皇を暗殺(爆殺)し、それを合図に各地の北条残党が一斉には反乱を起こすという大胆なものでした。

1335年(建武2年)6月

ところが計画は発覚し後醍醐天皇の暗殺は未遂に終わりました。
そして各地の反乱はほぼ不発か失敗に終わりました。

ところが1ヶ所だけ反乱の蜂起が成功しました。
それが信濃国(長野県)に潜伏していた北条高時の次男である北条時行でした。
そして北条時行軍はやがて武蔵国に突入します。

鎌倉幕府滅亡後、建武の新政政権により鎌倉には後醍醐天皇の皇子の成良親王を長としこれを補佐する形で尊氏の弟の足利直義が執権を行う『鎌倉将軍府』が設置されていました。

足利直義は北条時行軍に対して『鎌倉将軍府』から何度も討伐軍を送りました。

しかし討伐軍は、

・女影原(埼玉県日高市)にて、渋川義季と岩松経家が共に戦死。
・小手指ヶ原(埼玉県所沢市)において、今川範満は戦死。
・武蔵国府中(東京都府中市)において小山秀朝は戦死。

と言うよう次々とに敗北して総指揮官らが次々と戦死しました。

そして
・井手の沢(東京都町田市)において、ついに足利直義自身が率いた討伐軍をも撃破されてしまいました。

その為に足利直義は、鎌倉が陥落する危険性が高いと判断して、成良親王と幼い足利義詮を連れて鎌倉を脱出したのです。

そしてその際に幽閉されていた後醍醐天皇の皇子の護良親王は、足利直義の命を受けた家臣により殺害されてしまいました。

その後、
・鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)において、佐竹義直(佐竹貞義の子)らが戦死。

そしてこの戦いを受け、北条時行軍はついに鎌倉を占領。
そしてここに『鎌倉将軍府』は崩壊・消滅してしまったのです。


ちなみに、室町幕府が創始された後、鎌倉には『鎌倉府』が設置されました。名前は似ていますが組織的には別の物です。


さて、敗北した足利直義らは駿河国へと後退しますが、北条時行軍の更なる追撃を受け敗走を続けます。
最終的には三河国矢作〈愛知県岡崎市)まで後退させられていました。
そしてその敗走の間には、足利一族の今川氏や吉良氏にも戦死者が出ていました。

この足利直義らの苦境・救援要請は当然京都の建武政権にも伝わっていました。
そこで足利尊氏は北条時行軍への討伐軍派遣の許可を後醍醐天皇に求めました。

しかし後醍醐天皇はこれを許可しませんでした。
これは足利尊氏への警戒心もあった思われます。
足利尊氏は、討伐軍を率いるにあたって彼を「征夷大将軍」に任命するように求めてもいました。
元々、武士たちから人望、そして実力もあった足利尊氏がこれ以上名声を得て更に力を持つことを懸念・恐れていたからとも言われています。
特に鎌倉幕府と同じの武士政権が設立されるのを恐れていたのでしょう。

しかし足利尊氏は結局は許可を得ないまま出陣しました。
弟の足利直義の苦境を見捨てられないという名分もありました。
(後には「観応の擾乱」にて争うことになりますが、当時は尊氏と直義の関係は非常に良好でした。)
そして足利尊氏の出陣を聞きつけた武士諸勢力が次々と参陣しました。

そして足利尊氏は直義と合流してし反撃に出ました。

「もはや増えすぎて軍勢の正確な数が分からない」

という大軍となった足利尊氏の討伐軍は、激戦もありましたが次々と北条時行軍を破り、ついに鎌倉を奪回。
北条時行らが鎌倉を占拠していたのは僅か20日余りの事でした。
北条時行を補佐していた諏訪頼重を始めとする北条時行軍の武将43名は、鎌倉大御堂ヶ谷の勝長寿院にて自刃しました。
そしてその中には北条時行も含まれていたと思われました。
しかし確認はできませんでした。

なぜなら…。
勝長寿院にての死者たちは、その顔の皮が皆はがされていて顔の識別ができなかったからでした。

これが「中先代の乱」と言われる大きな事件でした。


その後について

劣勢の南朝軍は東北に帰還していた北畠顕家軍を再び呼び寄せました。
北畠顕家軍は連戦連勝を収める快進撃を続けながら、やがて関東へと突入。

すると意外な事が起こりました。
何とあの北条時行が軍を率いて北畠顕家軍に参加して来たのです。
そう北条時行は実は死亡していなかったのす。

そしてやがて北畠顕家は和泉国(大阪府)石津にて戦死。
まだ弱冠21歳という惜しまれる散華でした。

北畠顕家軍に参加していた北条時行がいつ頃に北畠顕家軍を離脱したのかはわかりませんが彼は再び生死不明となりました。

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usai21さん

2019/3/719:55:57

護良親王はもともと武芸に長け、野心的な性格で貴族というよりは武将であり、父帝後醍醐天皇に似た鼻息の荒い人物でした。

後醍醐天皇が討幕の兵を上げた際にも歩調を合わせず独自に令旨を発して兵を募ったりと、旧体制や武士を敵視する割には後醍醐天皇とも微妙に間隙のある関係でした。

建武の新政が成った際にも、執拗に足利尊氏を排除しようとしますが、そのやり方が後醍醐天皇のベクトルと合っていないので意に沿わず、却って皇位簒奪の疑いをかけられて流罪のように鎌倉に送られたのです。

その時、鎌倉は足利直義の管理下にあり、流されてきた護良親王は幽閉されます。

そこに、執権北条家の残党が挙兵した中先代の乱が起きます。

勢いを付けた残党軍は迎撃に出た足利直義の軍を破って鎌倉は陥落寸前になります。

さて、ここで護良親王の身柄が足利方にとっては爆弾になります。

親王で元征夷大将軍である護良親王が残党軍に捕らえられたり、残党軍に駆け込んだりすればにわかに鎌倉の将軍として祭り上げられます。

そうなればにわかに鎌倉幕府復活ということになりかねません。
もともと父とも反目し、足利尊氏を嫌っているのですから、残党軍と手を組む可能性は大いにあります。

そのように、危険な爆弾と化した護良親王は殺害されることとなります。

kaw********さん

編集あり2019/3/717:37:55

足利としては、人質交換の人材のはずでしたが後醍醐帝は無情にも取引に応じなくて見棄てたので、逆に足利勢の退去のさいには足手まといとなり重い病身ということもあって安楽死させられたのです。

父の無情こそ恨めしいと語ったとされます。

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