ここから本文です

李舜臣は、休戦協定を無視して 船に乗って帰ろうとした島津軍を襲ったので、 怒...

nam********さん

2019/3/2015:24:43

李舜臣は、休戦協定を無視して
船に乗って帰ろうとした島津軍を襲ったので、
怒った島津義弘に殺されたというのは、
本当ですか?

そのとき、あまりにも卑怯なので
味方だった明軍は、呆れて助けなかったというのは本当ですか?

閲覧数:
292
回答数:
5
お礼:
50枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

hir********さん

2019/3/2411:32:48

う~ん、少し乱暴なエピソードのような…。


まずは前哨戦の概略から

慶長3年{1598年)

8月

明・朝鮮連合軍は、東路軍、中路軍、西路軍、水軍、の4軍に分かれて南下を開始しました。

「東路軍」
・明の麻貴が率いる明・朝鮮連合軍約3万。(明軍2万4000程)
・加藤清正の蔚山城へ向かいました。

「中路軍」
・明の董一元が率いる明・朝鮮連合軍約4万6000。(明軍4万4000程)
・島津義弘の泗川城へ向かいました。

「西路軍」
・明の劉綎が率いる明・朝鮮連合軍約4万。(明軍3万6000程)
・更に明・朝鮮連合水軍が2万5000人程。(明水軍は2万人弱)
・この朝鮮水軍指揮官は「李舜臣」です。
・小西行長の順天城へ向かいました。

※兵力は資料によって少しバラバラです。


・「東路軍」の戦況

9月22日
「東路軍」は蔚山城攻撃を開始。(第2次蔚山城の戦い)
しかし水・食糧の備蓄が無く苦戦した前回と違い蔚山城は防備も強化され補給も行われていました。
そして加藤清正は守備に徹しました。
その為に明・朝鮮連合軍は甚大な損害が続出。

10月初旬
明・朝鮮連合軍は撤退に追い込まれました。
(泗川の戦いでの中路軍の壊滅の報せも影響したと思われます。)


・「中路軍」の戦況

9月27日
「中路軍」が泗川古城を攻略。(前哨戦)
しかし島津軍の川上忠実が少勢で頑強に抵抗し、彼も重傷を負いながらも重囲を破って脱出。更に部下が明・朝鮮連合軍の食糧庫の焼き討ちに成功。
明・朝鮮連合軍は食料難から短期決戦を強いられる事になりました。

10月1日
泗川新城付近にて「中路軍」4万6000と島津義弘軍6~7000が激突。
(泗川の戦い)

少勢であるはずの島津軍が伏兵戦術などを屈指して大勝。
「中路軍」は壊滅。
「島津家記」では明・朝鮮連合軍の首級3万3700人を討ち取ったとあり。

※あまりに数が多いので誇張もあるでしょうが、明・朝鮮連合軍が壊滅的損害を受けたのは間違いありません。


・「西路軍」の戦況

9月19日
「西路軍」は和平交渉を偽って小西行長を捕縛しようとしたが、伏兵がタイミングを誤り発覚。

その後、順天城は陸と海から「西路軍」の猛攻撃を受け続ける事になります。
しかし小西行長軍は頑強に抵抗して「西路軍」は被害が続出。

10月3~4日頃
水軍の攻撃に西路軍(陸路軍)は連携せずに攻撃に参加しませんでした。
「泗川の戦い」における中路軍の壊滅が伝わり戦意が低下していた様です。

10月7日
「西路軍」は包囲を解いて撤退。

10月9日
明・朝鮮連合水軍も海上封鎖を解いて撤退。


この様に明・朝鮮連合軍は、東路軍、中路軍、西路軍の3軍がすべて敗退してしまいました。

更にこれらの3路の戦いが終わった頃には、日本軍には5大老の連名での朝鮮からの全軍撤退命令が伝わっていました。

そしてそれは実質的に現地の日本軍と明軍の間でそれぞれ休戦協定を結び撤退する手はずになっていました。

そして10月下旬頃
小西行長と西路軍の総司令官の明軍との間に「休戦協定」が成立。
日本軍の無血撤退の約束を取り付けていました。

そしてそれを受けて合流予定日の
11月15日
島津義弘、宗義智、立花宗茂らは、小西行長らと合流予定地点である南海島の北の昌善島付近にて小西行長らを待っていました。

※最終決戦地となる「露梁津」は順天と泗川のほぼ中間点で合流予定地点はその東方にありました。

ところが順天城から撤退してくるはずの小西行長、大村喜前、五島玄雅、
有馬晴信、松浦鎮信の5将がなぜかいつまでも現れませんでした。


実は数日前の
11月11日
明・朝鮮連合水軍は協定を破り順天城の沖合を再び封鎖してしまっていたからでした。
日本軍の撤退は秀吉の死によるものだとの情報がもたらされた為でした。
特に李舜臣が強く日本軍への追撃・撤退妨害を主張したようです。

11月12日
順天城から小規模な日本軍船団が封鎖線に近づきましたがやはり追い返されてしまいました。

しかし小西行長もしたたかでした。
明水軍の指揮官である「陳璘」に賄賂的な贈物を続けていたのです。

11月16日夜
小西行長は陳璘に認めさせた1層の船を封鎖線外へと脱出させました。
そしてその船が島津義弘らの下へたどり着き小西行長らの危機を伝えたのです。

そして後に日本軍の1層の船の通過を知った李舜臣は陳璘に対して激怒。

「日本軍が救援に来たら今度は自分たち明・朝鮮連合水軍が挟み撃ちに合ってしまうので先手を取るべき」

と主張しました。

そして順天城沖合の封鎖を解き、東側から順天城への救援の最短ルートにあたる
「露梁津」という狭い海峡(水路)の入口へと向かいました。

11月17日
明・朝鮮連合水軍は露梁津に到着し待ち伏せ攻撃を狙いました。
明水軍は露梁津の北側の竹島周辺の島影に、
李舜臣の朝鮮水軍は露梁津の南側の観音浦という入り江に

それぞれ隠れ潜みました。

一方、小西行長の危機を知った島津義弘、宗義智、立花宗茂らは、急遽水軍を結成して順天城へと向かいました。
それはやはり露梁津を通過するコースでした。


そしてここに「露梁海戦」が起こったのです。


11月18日

午前4時頃、
まだ夜明け前でしたが、月明りは明るく視界は良かったようです。

日本軍が「露梁津」を通過しようとしたそその時、
それまで隠れ潜んでいた明・朝鮮連合水軍が南北から一斉に攻撃を開始。

明水軍の副将である老将の「鄧子龍」を先陣に島津義弘軍に突撃しましたが、
明水軍の誤射により「鄧子龍」の船が炎上し、鄧子龍は島津軍に取り囲まれ戦死しました。

しかし奇襲を受けた形の日本軍は苦戦。
特に激戦の中、先陣を切り、主力として戦った島津軍の損害は多かった様です。
そんな中、開戦前から慎重に偵察を行いながら航行していた立花宗茂軍とその弟の高橋直次軍は善戦していたようです。

日本軍は急遽編成された寄せ集めの水軍であった為に、明・朝鮮連合水軍に接舷して切り込むという白兵戦攻撃を行い、両軍は激戦が展開されました。

しかし明・朝鮮連合水軍は激しく火炎攻撃を行って来ました。
大砲による火炎弾や油入りの壺に火をつけた手投げ弾を使用していたようで、
急造の編成で装甲の施されていない日本水軍には多くの被害が出ました。

それでも、海戦に不慣れな島津軍の中でも特にそれを得意としていた
島津軍の「樺山久高」隊は少勢ながらも「露梁津」の突破に成功しました。
しかしやがて李舜臣の朝鮮水軍に島津軍本隊と分断され取り囲まれて苦戦。
それでも樺山久高は李舜臣の本船への切り込みをも狙って戦っていましたが、
やがて衆寡敵せずに朝鮮水軍が開戦前に隠れ潜んでいた観音浦の入り江の内へと追い込まれてしまいました。
そして朝鮮水軍の猛攻の前に追い詰められて次々と浅瀬へと座礁させられ、樺山久高隊はそのまま南海島へと上陸して、島内の陸路を横断して戦場を離脱する事となりました。


そしてやがて戦いの不利を悟り日本軍は撤退を考え始めたようです。
しかしこの時、露梁津では潮の流れが東から西へと流れ込んでいたようで、日本軍はうまく撤退が行えませんでした。
そしてその事もあり、島津義弘の乗船していた船も帆柱が折れ浸水も始まっていて、その為に朝鮮水軍に取り囲まれて、熊手で引き寄せられ朝鮮兵に乗り込まれる寸前という危機に陥りました。

島津義弘も
「このような異国の地で、わしの人生は終わるのか!」

と覚悟を決めたとも…。

ところがそこへ周りの日本軍の諸隊が駆けつけて、危機一髪で島津義弘は他船へと乗り移り救出されました。
出来すぎたエピソードで創作かも知れませんが、この時に島津義弘の救出に活躍したのは立花宗茂だったという話もあります。

立花宗茂の実父である高橋紹運は島津軍との戦いで筑前国岩屋城の戦いで763名ともども玉砕して戦死していたが、宗茂は緊急時にそのような私情にこだわるような人物ではなかったという話ですね。


この様にして夜が明ける頃、日本軍は島津軍を殿(しんがり)として全軍撤退へと移りました。
しかし李舜臣の朝鮮水軍はこれに追いすがりました。
特に李舜臣の旗艦は先頭を進み、彼自身も船上で太鼓をたたきながら督戦をしていました。

そこへ島津軍の銃砲火が激しく浴びせられ、李舜臣の左腋腹に命中。
一説には彼の心臓を直撃したとの説もあるようです。


ただ実は李舜臣の最期は資料により違い明確でない面もあるのです。

通常は上に書いたような最期が語られています。

しかし
朝鮮側の文献記録には

①追撃中に戦死した。
②追撃中に島津軍船の後方に潜んでいた鉄砲隊に斉射されて意識不明の重傷を負った。

明の文献記録には

副将の「鄧子龍」を救出しようとして戦死した。


日本側の文献記録には

「鄧子龍」を救出しようとしたところを日本軍に取り囲まれて、その船を乗っ取られたとのみの記載があり、その戦死の詳細までは記されていません。


明と日本の記録に一致点が見られるのは興味深いです。
もしかしたら李舜臣は戦闘の初期の段階ですでに戦死していた可能性さえあるからです。


さてこのように、日本軍は露梁津の突破に失敗して撤退していて、この点では日本軍は「露梁海戦」に敗戦したと言えるのかも知れません。

しかし日本軍側の上級指揮官に戦死者が無いのに比較して、明・朝鮮軍側には多数の戦死者が出ていて、両軍の戦力差も日本が半分であったとも言われており、実際には明・朝鮮軍側の辛勝、もしくは両軍の痛み分けだったとも思われます。



そしてそれより先の

⒒月18日の早朝

順天城の小西行長らは海上封鎖が解けたのを知り、南海島を南側から迂回するコースを通って脱出・撤退に成功していました。


以上の様に、日本軍側の本来の目的である小西行長らの救出は成功しており、
「露梁海戦」の意味・目的において日本軍側は戦略的には勝利を収めているとも考えられるのです。

質問した人からのコメント

2019/3/24 16:41:07

勉強になりました。

ベストアンサー以外の回答

1〜4件/4件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

スケールさん

2019/3/2221:34:20

助けられませんでした、相手の勢いが凄すぎて

2019/3/2221:14:58

日本と明との間で結ばれた休戦協定なので、李舜臣が無視して日本軍を襲いました。よりによって殿が鬼島津だった為、殲滅されました。
明軍は戦場にいないので、助ける由もありませんが、居たとして、番犬の如き朝鮮水軍を救う為に、散々苦しめられた鬼島津に戦いを挑む気になれたでしようか?
逆立ちしても、勝てる相手ではないから、黙って帰国を認めたのですから。
李舜臣が射殺されたのは、至近距離からの一斉射撃を受けた事を意味します。
当時の火縄銃で揺れる船上から撃たれたのだから、それ以外に考えられません。
又、亀甲船など、なかったであろう事も伺えます。

kyc********さん

2019/3/2016:21:35

退却していく秀吉軍を後ろから襲ったから、
逆返しにやられたと
桜井誠が言ってました。

aki********さん

2019/3/2016:05:07

明軍も一緒に襲い掛かったので明の将軍の鄧 子龍も一緒にぶっ殺されてる。

あわせて知りたい

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる