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正史三国志 呉は東は海に面し、北に魏、西に蜀、南に山越と四方を囲まれ、個人的に...

vit********さん

2019/5/902:09:39

正史三国志 呉は東は海に面し、北に魏、西に蜀、南に山越と四方を囲まれ、個人的に呉による天下統一は最も絶望的と考えていますが、

孫策や二張らは昨日今日降って湧いたわけではない山越の危険性を考慮しなかったのでしょうか?

三国志と言いつつ実際の孫呉の歴史は対魏対蜀というより山越戦争がメインですが、匈奴や羌ら異民族への圧政は反発を招くためこれに異議を唱える涼幽州出身の漢族系士大夫はいっぱいいました。一方で揚州士大夫で山越に武力ではなく恩義でもって懐柔した人や山越刈りに異を唱える人っていましたっけ?最初から武力制圧一択な感じはなぜなのでしょうか?

魏と蜀の異民族政策と呉のそれとは温度差が結構ありますが、呉が山越刈りに積極的なのは「封邑制」や「人口回復」の問題だけでしょうか?揚州人は山越民に対する差別意識や復讐感情のようなものが最初から有るのでしょうか?

孫策が山越を徳政でもって懐柔して、無尽蔵に羌族を繰り出してくる韓遂のようになっていれば、少なくとも黄祖には勝てると思うのですが。

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kou********さん

2019/5/1019:35:25

まあ、奴隷狩りな要素はもちろんでしょう。

呉が推進した武力制圧的な政策に反論がない最大の理由は、北方の民族のような連中じゃなかったからだと思います。
北方の連中は、基本、騎馬民族だったり遊牧民族だったりで土地に縛られないし、しかもそれなりにまとまった連中なので、敵に回すと厄介な面がありますが、山越の方は、おそらく農耕民族で、しかも百越なんて言われるくらいで数部族がメインだったんじゃないかと思います。

彼らは農耕民族(たぶん)なので、漢化もしやすかったんじゃないかとも思いますし、山岳やら河川やらで分断された少数民族なので、連携もたぶんない。なので北方の異民族のように傭兵として利用しづらい要素があったと思います。

結局、しらみつぶしに征圧するか懐柔するかしていくしかなかった相手だったんだと思いますね。
夜郎自大なんて言葉もあるくらいで(夜郎国は益州だけど)、彼らの小さなコミュニティーでは、北方の異民族みたいな、ある意味グローバルな視野はなかったでしょうし。

まあ、現在でも南方は少数部族の多い地域ですから、みんなが漢化したわけじゃないですわね。
おそらく武力制圧して、彼らにも課税したり賦役を課したり、北方でいえば、南匈奴みたいな感じで取り込んだんじゃないでしょうかね・・・。

  • 質問者

    vit********さん

    2019/5/1023:32:29

    やはり匈奴で言う単于や、黒山で言う張燕のような一括の窓口が無いことが交渉が成り立たなかった要因なのでしょうか?

    後漢ではよく太守が単独で賊の本拠地に乗り込んで道理と恩義でもって首魁を帰順させるエピソードが多いですが、対山越にはほぼ皆無ですよね…。最初から青州袁譚の人間狩りの国家主導バージョンが孫呉戦略みたいな雰囲気。

    孫呉の諸豪族は部曲を世襲したり、自領の農地開墾を推し進めたりできるから、それが武力的な山越刈りに拍車を掛けたのでしょうか?

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bla********さん

2019/5/1011:53:30

山越攻めは防衛のための人口増加目的でしょう。

先の方も指摘しているように、孫策はさっさと中原に打って出る気だったので面倒な山越はスルーしています。

江南は肥沃な土地で、後に穀倉地帯として大発展しますが、当時はほとんど開発が進んでいませんでした。
江南が本格的に発展するのは北方を異民族に抑えられて、漢民族が南方に大量移住した東晋~南朝時代で、それまでは人口が少なすぎて開発できなかったのです。

孫権の時代には開発するにも戦争するにも人口不足であり、人口の多い地域を占領、あるいは他の地域から人口を移住させたくても、北は曹操、西は劉備に抑えられてどうにもなりません。

結果的に山越狩りで人口を増やすぐらいしか選択肢が無かったのです。

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te9********さん

2019/5/920:02:15

先の回答にあるように
兵に組み込んだり戸籍を与えてたり
しますから服従すれば良し、
という方針だったのかと思います。

南は交州まで漢人は進出してましたから
徴用編入、漢人化政策を今更中途半端に
放棄する考えは特になかったの
ではないかと思います。

領域的に自分たちの物
という土地意識と強固な勢力で
なかったことから特に下手に出る相手だと
認識されてなかったの
ではないかと思います。

以下は妄想ですが
張昭などは中原の人からの手紙をもらって
喜んでる人達で
コンプレックスのようなものを
持ってたと思いますから
その分漢人化されてない人には
辛辣だったかもしれませんね。

孫策や孫権がわざわざ会稽太守を
しばらく名乗っているのは
かつての呉越の抗争を意識して
越人に対する優位性を示すためかな
などと想像しました。
(単に曹操に警戒されないためかも
しれませんが)

山越の定義についてですが
単に平地を追われて山に住み続けた人
越人の自覚を持ってる人
漢人からの逃亡者、犯罪者
ただの山賊

いろんな立場の人が混ざった
雑多な集団だったのかな、と思います。

強固な組織としてまとまっていたら
決戦か融和政策となって
良くも悪くもモグラ叩きのゲリラ戦
みたいな様相には
ならなかったかと思います。

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kan********さん

編集あり2019/5/919:09:05

孫策は山越の居住域まで勢力を伸ばしてないと思います。彼が制圧したのは揚州北部沿岸の呉郡や丹陽郡、会稽郡辺りまでで、山越が居住していたとされる揚州西部や南部の山間部にはほとんど手を付けていないように思いますね。
一応、厳白虎(厳虎)が山越の酋長だとか言われたりもしている(そういう説がある)ようですが、それも確定情報ではないので何とも。
孫権が継いでからの孫呉は揚州全域まで支配を広げたため必然的に山越と泥沼の抗争を繰り広げる事になりましたが、孫策は揚州全域に目を向けるより先に徐州や予章に目を向けてましたからねえ。

呉による四海統一が最も絶望的であったというのは私も異論ないところです。推定で総兵力の約半数近くを常に山越討伐に振り分けて、担当将校も太史慈、賀斉、凌統、陸遜、鍾離牧など錚々たる面々です。しかも対外戦争にも駆り出した凌統と陸遜以外はほぼ専従(陸遜も呂蒙の後任になるまではほぼ専従)ですから、孫呉が対外戦争よりも対山越戦争に力を入れていたのはまず間違いないでしょう。
でも、別に武力制圧一択ではないと思います。陸遜は制圧と懐柔を上手く組み合わせて来降した山越を兵戸に入れるような事もやってますし、鍾離牧も確か似たような感じです。
匈奴や羌族などと山越の異なる点は居住地域ですね。匈奴などは大半が域外、つまり長城の北に住んでいた蛮族だったわけですが山越は揚州の山間部、つまり国内に居住しています。それでいて武陵蛮みたいに固まって住んでいる訳ではなく山間部に点在する小さな集落を拠点にしていた事が呉書の各記述から伺えます。そしていつどこに出てくるか全く予測が付かない。この点が山越討伐の最も難しい所だったのではないかと思います。
揚州人の山越に対する感情などはちょっと史料もなく読みづらいですが、まあある程度は恨みつらみはあったかもしれませんね。山越は基本的に神出鬼没で襲撃と略奪しかしませんから。討伐が苛烈になりがちだったのも、そういった感情の問題があったのかも知れません。

で、これは個人的な推測になりますが、山越の討伐と懐柔はおそらく孫権治世中にはほとんど完了していたのではないかと思います。交州に呂岱や歩隲を派遣し出す辺りから山越の話があまり見られなくなってきて、その後は鍾離牧の討伐記録が残る程度になってくるので。
というか、山越が片付いたからこそもっと南の交州に手が伸ばせるようになったんじゃないか、とも思います。歩隲も山越討伐に駆り出されてる記録がありますからね。

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kum********さん

2019/5/912:42:56

後々、孫権が割拠したためになんとなく同じイメージになっていますが、もしかしたら孫策にとって江東の地と言うのは、中原へ撃って出るための腰掛でしかなかったのではないでしょうか。

長江流域はそれなりに発展していますし孫一族の支持基盤もありますので、そこを足がかりにできると思いますが、南方を開拓するとなると時間がかかりすぎる。それに手をこまねいていると中原勢力との差がどんどん大きくなってくる。それよりは曹操と袁紹の決着が付く前に自分も北方へ攻め込みたい、と意識が北に向いていたのだと思います。

実際、呉の名士でもある陸一族の陸康を攻めたりしていますし、協力してくれない勢力はどんどん切り捨てる傾向が見られます。

結局、時間との戦い、と言う焦りが理由だと思いますね。その前に何とか、と言う無理攻めが現地豪族の一部から反感を買い、あの暗殺劇に繋がっているように思います。

それと江東の豪族は各々が自前の勢力伸張を重視しているので、中原のように教化して取り込み、と言う意識はどの武将も薄かったように思いますね。もちろんその中には差別意識もあったと思います。

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