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大和小泉藩になぜ奥平野村が領知されていたのでしょうか?

tw_********さん

2019/5/2112:56:15

大和小泉藩になぜ奥平野村が領知されていたのでしょうか?

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ytj********さん

2019/5/2402:30:29

片桐貞隆が慶長19年(1614年)6月、徳川家康の口添えで5000石を秀頼より加増された際、平野村(慶長郷帳によると440石余)の内28石余が割り当てられたようです(『片桐貞隆宛知行目録(杉原家文書)』)。畿内周辺の土地は寺社領や公家領も入り乱れ、大名の領地が細切れになるのは当たり前で仕方ありません。

なお元和元年(1615年)には高家畠山貞政が八部郡に所領300石余を幕府より賜って移り住み、元和3年(1617年)の「摂津一国御改帳」では、村高468石余の内、235石余が幕府領、233石余が大和小泉藩(28石余)と高家畠山領(205石余)となっています。同年、幕府領は尼崎藩領となります。

寛永4年(1627年)には八部郡平野村の小泉藩片桐家所領は、分家の旗本片桐貞晴領となます。正保郷帳では村名も「奥平野村」となり、高468石余のうち旗本片桐領28石余、旗本畠山領204石余、尼崎藩領235石余となっています。

その後寛文4年(1664年)には尼崎藩領は分家の旗本青山幸通領となりますが、延宝5年(1677年)には幸通から再分知された青山亀之丞の早世により、再び幕府領へと戻ります。

明和8年(1771年)の「村明細帳(森本家旧蔵文書)」によると、奥平野村は竈数97(幕府領48・畠山領43・片桐領6)、人数415(幕府領185・畠山領209・片桐領21)。

明治維新の際に畠山は足利と改姓しており、兵庫県領196石5斗6升9合、旗本足利領204石8斗5升6合、旗本片桐領28石1斗6升6合、除地8斗1升6合となります。

以上大体のところ『日本歴史地名大系』の「奥平野村」の項目によります。

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