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松平容保は会津藩が滅びたら、日光東照宮の宮司になりましたが日々どの様に過ごし...

kou********さん

2019/6/120:39:18

松平容保は会津藩が滅びたら、日光東照宮の宮司になりましたが日々どの様に過ごしたのでしょうか。

佐川官兵衛とか旧臣が訪ねて来たら会ったりしたり、周囲からは好かれていたんですよね。

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ベストアンサーに選ばれた回答

shi********さん

2019/6/206:46:04

以下Wikiからの引用です。

つつましやかな人生でした。(悪く言えば、冷飯ぐらい。)

戦後[編集]

晩年の容保
明治2年(1869年)6月3日、容保の実子、慶三郎(容大)が生まれる。
11月4日、容大に家名相続が許され、華族に列し子爵を授かり、陸奥国
3万石の支配を命じられる。
12月7日、容保は和歌山藩へ預け替えとなる。
明治3年(1870年)5月15日、容大が斗南藩知事に任じられ、五戸
(現青森県)へ向かうこととなる。
明治4年(1871年)、容保も斗南藩に預け替えとなり、7月から8月の
約1カ月間、田名部にて居住するが、その後東京へ移住する。
明治5年(1872年)1月、蟄居を許される。しかし家は困窮しており、
新政府に出仕した旧臣手代木勝任は俸給の半ばを割いて送金し続けていた
という。
明治13年(1880年)2月、日光東照宮の宮司に任じられる。3月、
上野東照宮祠官を兼務し、保晃会会長に就任する。6月、土津神社の祠官
を兼務する。
明治26年(1893年)12月5日、東京小石川の自邸にて肺炎のため薨去。

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