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仏教の質問です。

loさん

2019/6/220:41:52

仏教の質問です。

サティサンパジャンニャ
正知を持って気づく
という意味だと思いますが、

ジャンニャの定義を詳しく知っている方はいますでしょうか?
ここで人によって解釈が別れていますので、お聞きしました。

ゴエンカは「仏陀はサンパジャンニャにちて聞かれたときに二つの説明をしていて
生まれては消えていく感覚の観察
全ての動作に置いてサンパジャーナの連続性
」と言っています。
また、マハーシのような歩くような一つ一つの動作を確認していくのを正しい理解として、翻訳するのは間違っていると言っています。
「あらゆる動作をしているときにサンパジャンニャと共にあらなければならない。」

スマナサーラさんは
http://mallam.oh.land.to/DancingDax/index.php?%A5%B5%A5%F3%A5%D1%A5...
事実を曲げずに見るといっています。

山下良道さんだと青空の立場から気づく
ということになるのでしょうか?

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san********さん

2019/6/318:54:30

質問にある「サティサンパジャンニャ」はパーリ語で satisampajaññena です。
「念」= sati と、「正知」= sampajaññena を合わせた言葉で、和訳では「正念正知」と訳されることが多いですね。

sati は置くとして、水野弘元博士のパーリ語辞典によれば、sampajānaは「知る」を意味する jñāに 「正しく〜」を意味する接頭辞 saṃ- がついたものですから、そこから「正知」という訳語が導かれているわけです。

この sampajāna が sati と並列され satisampajaññena となっているのは、「正知をもって気づく」というより、正念と正知が常に同時に生起するものとして認識されていることを示しています。
正念のないところに正知はなく、正知のないところに正念はないというのは、仏典においてこの二つが常にセットで修習するものとして説かれていることから明かです。


質問にある「ジャンニャの定義」に関する辞書的な回答としては上の「知る」ということになりますが、問題は「ジャンニャ」( jñā ) のほうではなく、接頭辞saṃ- が意味する「正しく」とはどういうことか、ということですよね。

sampajaññena は主にパーリ仏典の沙門果経と大念処経で説かれているのですが、これについてはパーリ三蔵を編纂したブッダゴーサが、註(アッタカター)の中で詳しく言及しているようです。
私はブッダゴーサ註自体は読んでいませんが、パオ・セヤドーがその解説をした講義は読んでいますので紹介しますと、ブッダゴーサによれば、sampajaññena は日常動作の全て(行住座臥)について下記の四点を意識することを言うということです。

・有益正知(sãtthaka sampajañña):その行為には善なる利益があるか

・適宜正知(sappā sampajañña):その行為は方法として合理的か

・行処正知(gocara sampajañña):行為の間、業処を保持しているか

・不痴正知(asammoha sampajañña):迷妄に陥らず、無常・苦・無我の三相を了知しているか

仏典では、基本的にはサマタで禅定に入ってから正念正知を行うことになっているので、三番目の行処正知があるのだと思います。
ゴエンカ氏とスマナサーラ師の解説は共に不痴正知を自分たちの言い方で説明しているものと思います。
山下良道師の説は良く知らないのでお答えできません。

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men********さん

2019/6/717:56:53

正知について、清浄道論には、

' Asammohalakkhaṇaṃ sampajaññaṃ, tīraṇarasaṃ, pavicayapaccupaṭṭhānaṃ.'

とあり、その訳として南伝大蔵経に、「正知は不痴を相とす、推度を味とす、簡択を現起とす。」とあります。

ここで簡択と訳されたpavicayaは、PTSパーリ語辞典ではinvesitigationになっています。

まとめると、ブッダゴーサの清浄道論では、正知は推察する、調査するの意味で定義されていると言えます。

これは、PTSパーリ語辞典で、正知 sampajaññaがconsideration(考える)やcomprehension(理解する)で定義されていることに通じているといえるでしょう。

この定義から考えてみてください。

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タイのタンマ語辞典には、
『サティは正しく思い出すことで、愚かでなく、ぼんやりせず、常に不注意でなく、サンパチャンニャは常に周到に正しさを感じること』と説明があります。
日本語では「常自覚」あるいは「理性」などと訳します。

その辞書には、更に『サティとサンパチャンニャはいつでも友達で話すことができず、常に一緒なのでサティサンパチャンニャと呼んで一つのものと見なす。サティサンパチャンニャがなければ休まずぼんやりし、不注意の訓練をすれば、間もなく、老いるより前に呆ける』と解説しています。


「サティとは正しく思い出すこと」というのは、食事をする時を例にすれば、「零してはいけない」と思い出すのもサティで、「よく噛もう」と思い出すのもサティで、「一つのオカズばかり食べるのは良くない」と思い出すのもサティで、注意深い人は一つの行動も数えきれないほどのサティを使っています。

しかしぼんやりしている時は何も考えずに、一つのオカズばかりを、よく噛みもせず、食べ散らかします。そういう時、そういう人を「サティがない」「サティが良くない」「常自覚がない」と言います。要するにボケーとしていることです。

サンパチャンニャは、「零してはいけない」とサティで思い出した後、サンパチャンニャが「零していない」と正しい状態を知って確認し、そうすれば「サティサンパッチャンニャがある」「常に自覚がある」と言います。

「よく噛もう」と思い出せば、その思い出すことがサティで、「よく噛んでいる」と、正しい状態を感じて確認するのがサンパチャンニャです。二つが連携して働くことで、最高に良い状態を維持できます。

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zys********さん

2019/6/222:21:06

>サンパジャンニャ

サンパ(明瞭)ジャンニャ(理解、観察)だったと思います。

これ(正知)には二つの立場があると思います。
一つは覚者=正知であり、修行者からするならば分別、妄想なく観る、
ということだと思います。
妄想なく観るためにはサティがなければなりませんし、そのためには
分別を停止させなければなりません。
そしてその分別はカンマが生み出すのですから、カンマそのものも
観ていかなければならないでしょう。

>生まれては消えていく感覚の観察
全ての動作に置いてサンパジャーナの連続性

ゴエンカさんはヴェーダナーをよく言いますね。
身念処においては当然ヴェーダナーを観ていくわけですが、
これも分別妄想なくサティをもって観ていくということでしょう。

>翻訳するのは間違っていると言っています。

テーラワーダの坊さんたちにも結構そういうのあるんですよね。
「ゆっくり歩いたのではなんの役にも立たない」と言っている
有名な坊さんもいますし。(笑)

>事実を曲げずに見るといっています。
>青空の立場から気づく

みなさん同じことを言葉を変えて言っているだけと思います。

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