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神の正体とは何か。聖書にもありますが、それは、言葉を創造したヒト。もしくは、...

jap********さん

2019/6/813:13:00

神の正体とは何か。聖書にもありますが、それは、言葉を創造したヒト。もしくは、そのヒトに言葉を発させた何者か。きっと、それが人類史の本当の始まりだから。当然、言葉の成立過程を考えたと

き、たった一人からでは言葉は生まれないのかもしれません。しかし、おそらく「神」は言葉の創造に中心的な役割を果たした。だから、「神」もしくは「神」によって言葉を口にさせられたものは、ヒトの形をしている。偶像崇拝の是非は置いておくにしても、やはり多くの宗教で信仰の対象となっているものがヒトの形をしているのはそういうことだからなんだと思います。また、広義には、「神」の能力を受け継ぐ全ての人類も、神と言えるのではないでしょうか。皆さんは、「神」とは何だと考えますか?

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o_r********さん

2019/6/814:53:08

「神」といっても神道のそれと、ゴッドやアッラーの訳語としての「神」とは意味が違うので由来も違うでしょう。
宗教学的には、「神」とは「聖なるもの」であり、ルドルフ・オットーという学者の説によれば、人間が「ヌミノーゼ」といわれるある種の畏怖感情を伴う体験をした際に出会う存在です。
だから「正体」と言えば、人間の聖なるものへの畏れといった感情を投映したものとも言えます。日本では山や海といった自然が崇拝の対象になっていますが、それは昔の人が自然現象や自然物に人間の怒りなどの感情を投映したからです。ヒンズー教では人間以外の生物を神格化していますよね。
神道では擬人化が行われたわけですが、だからといって「神」がもともと人格的だとか人間だとかいったことにはなりません。そうではなく、人間の非日常的な感情が擬人化によって神話を生み出したのです。
フォイエルバッハの場合、「神」とは人間の願望を投影したものであるということになります。それで神学は人間学だということになるわけです。これはあなたの考えに近いかもしれません。
しかしそれは科学的な理屈であって、宗教はそういう科学的思考とは別の思考枠を持っており、その独自性は尊重されており、宗教は科学と優劣をつけられるべきものではありません。
だから「神の正体」を、ある牧師のように聖書の言葉を文字通り引いてきて「愛」だと言おうが「光」だと言おうが、それはそれで自由だし、質問者のあなたを含めて何人(なんびと)も否定できるものではありません。否定したところで、それはあなたの意見にすぎないと言われるだけのことです。
「神」とは、一般の事物のように客観的にその「正体」を論じて結論を得られるような対象ではないのです。「神」だけではなく「天使」だろうが「幽霊」だろうが「宇宙人」だろうが、科学的・客観的にその「正体」を論じたって結論は出ないものがあります。
なぜなら、それらは「信」の対象であって「知」の対象ではないからです。パラダイムが違うのです。「認識」には「信」と「知」の両面があって、質問者さんは「知」のパラダイムで言っておられるので、「信」のパラダイムの答えには不満でしょう。でも宗教者を貶めて何の意味があるでしょうか?人それぞれ、いろんな神観があってよしとすべきではないでしょうか?神の正体など論じたところで、それこそイスラム教徒への配慮を欠く文言が流れたりして、無駄に不快な感情や無用な対立を招くだけでしょう。
あなたは「知」の「認識」による答えを得ることはできるかもしれませんが、そんなものをいくら集めたところで無駄です。「神」は「信」の「認識」の対象であり、現代社会ではその権利を認められているからです。そうでなければ、中国共産党のように、宗教は迷信だ阿片だという理屈で否定し去られることでしょう。しかし自由主義国ではそうではないですよね。
あなたの言うように「神とはもともとは人間だ」という命題も成り立つし、「神とはもともと神だ」という命題も成り立つし、「神とはもともとは自然現象だ」という命題も成り立つのです。
ちなみに私は聖書にもとづいて「神とは生命エネルギーの源だ」と思っています。人格うんぬんは人間に啓示されてからの話であり、元から人格的存在であるとは断定できないと思います。人格は比喩だからです。

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gg_********さん

2019/6/1510:25:42

例えばキリスト教を例に取ります。これは他の宗教にも当てはまりますが、真摯に真理を追求するに当り「宗教的建屋やアイテム」は不要です。こういった物に頼っている事で、他に目的がある宗教である事は明白です。現代日本に於いてのそれは「営利」ですが、キリスト教が始まった頃は混沌とした世の中であったことから「洗脳支配」を目的としていたのではなかろうかと思います。現代日本の価値観から考えると「支配」は極悪ですから「宗教を利用して支配?」と思ってしまいますが、混沌とした環境下ではごく当たり前であったと考えます。
さて、そうなると教義に生じる矛盾を何か絶対的存在で覆い被せる必要があります。神は賢い宗教家が創造したものと思って間違い無いでしょう。
もし、神が創造主なら近代科学以上の技術を既に持っていますから、キリスト教が「天動説」を支持するのは、あまりにも幼稚です。「天動説」を支持した理由は、技術力が無かったことにもよりますが「支配目的」に於いて「地動説」は支持出来なかったという理由でしょう。
現代も尚神を崇拝するのは、いないと解っていながらも、神に頼らなければ宗教として成立しないからだと思います。

ued********さん

2019/6/1501:10:31

0から1は生まれません!宇宙誕生の原因!これが神なのでは?その他は宇宙人説や道徳の象徴と色々あると思いますが!科学的には神イコール最初の何か?が神の正体だと思いますよ!

hin********さん

2019/6/1416:29:28

そのさ、「言葉」に言及するのは間違っているんじゃないかな。
「意思の伝達」という意味では、「言葉」である必要はないと思います。

イルカなんてさ、「言葉」というかどうかはわかんないけど、互いの意思を伝えあっているじゃないですか。

ミツバチだって、ダンスで情報交換してる訳で、それは群生・集団で群れを成している動物、もしかしたら植物も何らかの情報交換をしているのかもしれません。

>やはり多くの宗教で信仰の対象となっているものがヒトの形をしているのは

言葉を想像した人を創造したのは神だから、自分に似た形で作ったんだと思いますよ。

我々にはわかりませんが、イルカに神がいたら、そのイメージはイルカのカタチをしていると思います。
つまりイルカ型の神はイルカを創造し、蟻型の神はアリを創造したんだと思います。

私たちの神は私たちにしか認識できません。
バクやラクダやミジンコにはそれを認識できる我々との意思相通ツールがないからです。

一方、ミトコンドリアにはミトコンドリアにしかわからない神がいると思うのです。
それは紀元前から続くミトコンドリア種族が代々伝えられ、信者を増やし、宇宙を創造し、最初のミトコンドリアを地球に放ち、人間も含めた他の生物を創造した、ミトコンドリア神がいるのです。

それも一種一神ではありません。
ミトコンドリアにもさまざまな宗教があり、宗派も派閥もあるでしょう。
アフリカアマゾン湿地帯のミトコンドリア神と日本の段々畑のミトコンドリア神は同じであるはずがありません。

私たち人間は、古くからグローバル化が進み、代表される宗教の数もある程度絞れる種です。
しかしながら、ミトコンドリアは各場所から移動はほとんどなく、その地で生まれその地で死にゆく運命です。そうなれば、ミトコンドリアの生息数だけ神がいると言っていいでしょう。

これですべてがわかるかと思います。
「意思疎通」手段を生み出すその生物は神と同じ形状で創造され、その種の神のイメージは、自らの姿と同じカタチであろうかと思われます。

tun********さん

2019/6/908:40:17

神や精霊、その他もろもろは
在り来たりな回答の一つとしては
「説明・思考の簡略化」。
言語・知識 の 未成熟・不完全さ によって
仮導入される 存在X。

https://youtu.be/VyKLQXOj0ts

wak********さん

2019/6/908:30:10

この世は物質と精神で構成されています。もし、この世は物質のみで構成されているとしたら、私は何も感じないでしょう。

熱いとか赤いと感じている主体が私です。熱いとか赤いと言う感じは、幾ら高性能な顕微鏡で脳の中を覗いても見えません。物質が、熱いや赤いに対応する動きをしているのが見えるだけです。
その動きの刺激を受けて、精神である私が熱いとか赤いと感じているのです。
熱いや赤いは物質ではないので、それを感じている私も物質ではありません。私は、無限の感受性である精神です。

物質の全体を宇宙と言います。質問者さん、それでは「精神の全体」を何と呼んだら良いでしょうか。

そして、この世の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果が原因となり更に結果を生じると言う形になります。
従って、宇宙の始まりは原因なくして結果を生じなければなりません。つまり、無から有を生じなければなりません。しかし、それは不可能です。

一方、精神は物質を動かすことが出来ます。精神である私は物質である手を動かすことが出来ます。ですから、宇宙の始まりにおいて最初に動いたものは、「原因から自由な精神」以外にはありません。

質問者さん、この「宇宙を創造した精神」を何と呼んだら良いでしょうか?

ユダヤ教・キリスト教では、外界は神が創造したと信じます。
ここに物が落ちたのは、ここに落ちるように、宇宙が作られているからであると考えます。そして、どうしてここに落ちたのかを追求し、 物体は外から力が加わらなければ、そのまま飛び出した方向へ等速運動を続けるが、落下距離は時間の2乗に比例する為、 放物線を描いて地上に落下し、ここに落ちたことを発見します。
宇宙で起る全てのことは、必然であり意図されたものであると考えます。ですから、一見偶然に思える事柄に対しても、 必然であると確信し、その仕組みを解明しようとします。
ある天才は、「神はサイコロを振らない。」と言いました。 これは、現象を確率で説明しようとする態度に対して、必然な説明をしなければならないと批判したものです。
この様に、西洋では神が宇宙を創造したと言う確信により、自然科学は発達して来ました。

それに比べて、東洋では仏が宇宙を作ったとは考えません。精神の中に仏が存在していると考え、内心の仏を追求します。
宇宙は偶然出来たと考えます。物は色んな所に落ちます。物がここに落ちたのは偶然だと考えては、 落下の法則や万有引力の法則は思いつかないでしょう。
無神論も同様です。ハッキリと必然と分ること意外は偶然であると考えたのでは、人に先駆けて新しいものを発見することは出来ません。


神を持ち出すと、単純に非科学的であると非難する方が居られます。しかし、科学で全ての現象を説明出来るでしょうか。
第一、物質の因果関係のみでは、宇宙の始まりを説明することは出来ません。 物質の因果関係は、原因→結果=原因→結果=原因→結果・・・と続きます。原因があり、その為に結果が生じ、 その結果が原因となり次の結果が生じると言う順番となります。
しかし、これでは最初の原因が存在出来ません。その最初の原因は、何らかの原因により生じなければなりませんが、それがありません。 物質のみでは、宇宙の始まりを説明できないのは自明のことです。

また、コインのゲームを考えて見ます。コインを縦に立て、倒れて表が出れば私が勝ち、裏が出れば貴方が勝ちます。 科学では、このゲームで私が勝つ確率は50%、負ける確率も50%としか言えません。 しかし、現実にはどちらかが勝ち、掛け金を全て手に入れます。それを決めるのは何でしょうか。
これと同じことは、素粒子レベルでは無数に起っています。完全に均衡している状態で、僅かな力が加わり少しの不均衡が生じると、 不均衡が不均衡を呼び次第に大きくなり、終にはコインは倒れます。

確率は50%ですが、ほんの僅かな力が加わることで、表が出たり裏が出たりする。その為に、ある者は人生で成功し、ある者は失敗する。 その僅かな力が精神である可能性はあります。

精神である私は、物質である手を動かすことが出来ます。肉体は動かすか動かさないかで物的に均衡した状態にあります。 ほんの僅かな精神の力を、物的に均衡した物質(脳)に加えることにより、手は動いたり動かなかったりします。 この様に、精神は物質を動かすことが出来ます。

単なる偶然の連続で、この宇宙は進行しているのでしょうか。それとも、何らかの意図があり、僅かな精神の力が加えられているのでしょうか。

正しい知識を得るには、全てのものを疑うことの出来ない自明なものなのか否か問いかけることが必要です。 デカルトは、この方法的懐疑により、全ての知識を自明なものか否か検証して見ました。
その結果、自明なことは唯一つしかないことが判明しました。それは、全てのものを疑っている自分が存在することだけは 疑うことが出来ないと言うことでした。 「我思う故に我あり。」です。それ以外は、正しいと思ってはいたが、そう思っていただけであることが分りました。 これが「無知の知」です。

しかし、自明なものしか信じないのであれば、そこまでです。そこから先は、何を信じるかによります。
心は、その中に宇宙を作り出しています。私たちが感じている宇宙は、心の外の宇宙ではありません。心が作り出した宇宙です。 心の外を覗くことは不可能です。心の外に、宇宙があるのかどうかも分りません。
しかし、心は外界に似せて、心の中に世界を作り出しているのです。心の中では、1+1=0でも、1でも3でも何でも構いません。 心の中に在るものは、消えたり生じたりします。従って1つと1つ在ったものが消え去り0となっても良いし、 新しく生じて3になっても良いのです。決して増えもせず減りもしないと前提して、1+1=2としなければならない必要はありません。

しかし、外界では、無から有は生じませんし、有が消滅して無となることもありません。エネルギー保存の法則が成立します。 従って、1+1=2でなくてはなりません。
心が1+1=2に制約されている事実は、心の中の世界は、外界に出来る限り似せて作られていることを証明しています。 外界に1+1=3を適用すると、その行動は誤りであり、失敗するからです。
従って、外界には、心で感じている様な世界が存在することを前提とせざるを得ません。

宇宙の仕組みを完全に解明した時、物質だけでは説明出来ないことが残されたら、神の存在を証明したことになります。 この様に、宗教は全く科学的な態度であると言えます。

「神の存在」について、私のホームページに纏めました。是非ご参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/syuukyouhahikagakutekika.html

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