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こんにちは、 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14208...

..さん

2019/6/1618:08:52

こんにちは、
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q142087279...
の質問者です。

前回は回答いただきありがとうございます^^
返信できなかったため、こちらで返信をいたしたいです。

行が滅するという点なのですが、前回の通り、ここが今までわからずにいました。

sanさんが以前仰った「関わりから離れること(遠離 viveka )」
というのは

行(体のコリのようなもの)を見つけた時に「想」によって概念化せず、
主体と客体の区別が溶け合う状態で観察する。という解釈で大丈夫でしょうか?

ブッダのいう「身体における身体の観察、感覚における感覚の観察、心における心の観察、心の対象における心の対象の観察」(ティクナットハンさんの訳です。)ここを参考にしています。



>行が消えたということですと、縁起説から言えば正念正知によってまず無明が消えた、ゆえに行が消えた、ということになります。
>そうなると、それは解脱したということに他なりません。

行は「形成力」、および「形成された物」だと思うのですが、解脱は、「過去に蓄えてきた全ての形成された物」の消滅であって、個別の「形成された物」、「形成力」の消滅に関しては、普通に起こり得るものであると思っていました。

ゴエンカさんは、
形成力、および形成された物に対して、集中し、平静を保つことで、蓄えたサンカーラを滅ぼしていく。と言っています。

他には、
アーナパーナ・サティスッタ、第二節で
「八: 息を吸いながら思いの形成を静める。息を吐きながら思いの形成を静める。このように瞑想をする。」(ティクナットハンさんの訳です。)
とあります。その前に、一から七までのプロセスがあり、そのプロセスで心を平安にさせ、集中力(定)を高めて、主体と客体の区別が溶けてから「八」に入るという理解でいます。

確かに、私も体の観察、慈悲の瞑想などを通すことで、「形成された物」が消えていくのを感じます。


>執着していないので、勝手に滅していきます。
>それがあたかも正念正知によって滅したように感じられるかもしれませんが、実際には執着が消>えたことによって、自分から離れた、ということだと考えられます。

執着していない状態ということは、無明でないと言い換えることもできないでしょうか?
無明(「色,受,想,行,識」に対する縁起,無我,無常,苦の理解がない)ゆえに、想=>行を作る。

ここで、書きながらもう一つ疑問に浮かんだのですが、
「心が乱れている状態」は「形成された物」が感覚としてたくさん現れている状態。
と理解してしまって大丈夫でしょうか?


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仏教 ヴィパッサナー

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ベストアンサーに選ばれた回答

san********さん

2019/6/1720:13:58

こんにちは
精進されているご様子、喜ばしく思うとともに、とても刺激を受けます。

>行(体のコリのようなもの)を見つけた時に「想」によって概念化せず、主体と客体の区別が溶け合う状態で観察する。

サティを維持しても想による概念化はなかなか止められないと思いますが、あくまでサティを維持して観察することに専念し続ければ良いと思います。
質問者さんにはニミッタは現れていますでしょうか?
「主体と客体の区別が溶け合う状態」というのは、具体的にはニミッタを保持している状態のことを言っているのだと思いますが、そうであればその状態を維持して観察するという理解で良いと思います。


>「形成力」の消滅

誤解させてしまったかもしれませんが、もちろん行も無常ですので、因縁によって生じ滅しています。生滅しないもの(無為法)は涅槃以外にはないわけですから。
私が指摘したのは、正念正知によって、つまりあなたの意図によって、それが消えるという見解です。

仏教における苦(dukkha)とは、肉体的精神的苦痛のことだけではなく、より本質的には、無常である現象をコントロールできない、という真理のことを指しています。
ヴィパッサナーがあくまで「観行」であり、要求されているのは「観ること」(anupassanā)だという認識を絶えず持っておくことは、無常・苦・無我を認識する上で非常に重要だと思います。
私たちに出来るのは観ることだけなのであり、現象をコントロールする力はない、そのことをこそ苦というのです。
このことは多くの経典において説かれていることですが、その一つである相応部・蘊相応の無我相経から引用します。

「比丘たちよ、諸行(サンカーラ)は我ではありません。
比丘たちよ、諸行が我であるならば、諸行が患いを起すことはなく、また諸行に対してこのように命ずることが可能でしょう。
『私の諸行はこのようであれ。私の諸行はこのようであるなかれ』と。
しかし比丘たちよ、諸行は我ではなく、それゆえ諸行は患いを起こし、また諸行に対してこのように命ずることは不可能なのです。
『私の諸行はこのようであれ。私の諸行はこのようであるなかれ』と。」

無我相経では行だけではなく、五蘊(色・受・想・行・識)全てに関して同様に繰り返されます。
もしも、主体的に行をコントロールしたり、消したりすることができるという認識を持てば、行を我と見なし執着する思考が生じてしまうことになり、ブッダの教えからも外れてしまいます。
再び強調しますが、私たちに出来るのは観ることだけです。
しかし、観ることによって知ることができます。
知ることで無明が滅すれば、そのとき連鎖的に行も滅していきます。
それが苦が終わる原理です。



ところで 行、サンカーラについて改めて確認したいと思います。
出入息念経においては、二種類のサンカーラ(saṅkhāra)が出て来ます。
一つが身念処に関する経文で出てくる kāyasaṅkhāra であり、通常「身行」と訳されます。
もう一つが心念処に関する cittasaṅkhāra であり、こちらは「心行」と訳されます。質問で引用された「思いの形成」とはこの「心行」の別訳ですね。

では身行、心行とは具体的にはなんなのでしょうか。ゴエンカさんの説にとらわれず、あくまで仏典から説明してみたいと思います。

パーリ仏典小部の「無礙解道」という論集の中の「出入息念論」では以下のように説かれています。(「無礙解道」はヴィパッサナーの実践綱領として有名な「清浄道論」にも多大な影響を与えたと言われる論集ですので、仏説とは言えませんが充分信頼できます。)

「身行とは何であろうか? 長い入息は身体の属性である。これら身体の属性である諸々の法が身行である。」

この後も続くのですが、要するに身行とは呼吸に伴っておきる様々な身体の反応のことです。
呼吸をすれば胸が膨らんだり縮んだりし、背中が伸びたり曲がったりします。人によっては、さらに微細な反応、例えば肺自体の収縮、血流や脈拍の変化などを感じるでしょう。このような身体反応がすなわち身行であるという理解で良いと思います。形成力だとか、形成されたもの、というような抽象的な訳だと理解が難しいので。(様々な身体反応は”形成されたもの”に他なりません。)

心行も同様に「無礙解道」で以下のように説かれています。

「心行とは何であろうか? 長い入息による想と受は心の属性である。それら心の属性である諸々の法が、心行である。」

要するに呼吸に伴って生じる感受と想、それが心行です。
例えば、呼吸が微細になることで、それを捉えられずに生じる動揺や不安、あるいは逆に軽安さや喜びといった感覚を感じることもあるでしょう。それら全てが心行であるということです。

そして、確かに出入息念経には、質問者さんが引用したように、「『私は身行を安静にして出息しよう』と修練し」あるいは、「『私は心行を安静にして出息しよう』と修練し」といった記述があるのですが、パオ・セヤドーはこれに関して、ヴィパッサナーについて解説した「如実知見」の中で、身行であれ、心行であれ、それらを故意に安静にさせようとしてはいけない、と説いています。そのようにすれば、定力が後退するからだと。

「修行者に必要なのは 、ただ息を静めようという決意 、不断に継続して息に意を専一 注ぐことだけです。 」(如実知見)

この教えを先に述べたことに関連させて解釈すれば、観行の中でただ観るということに専念専心せず、感じている対象を意図的に変えたり、消したりしようとすれば、そこに執着が生じ、それによって定が弱まってしまう、ということではないでしょうか。


>「心が乱れている状態」は「形成された物」が感覚としてたくさん現れている状態。

これは一概に言えません。
心行が活発に生じている状態を「心が乱れている」と表現することは可能ですが、「心が乱れている状態」という表現自体が仏教のものではないので、その定義には揺らぎがあるからです。
仏教を実践するときには、仏教外の言葉や概念を安易に持ち込んで、仏教の教えを言い替えてしまわないことも大事だと思います。言葉の言い替えによって、もともとの用語が持つ意味が改変されてしまい、教えから逸れる可能性があるからです。

  • 質問者

    ..さん

    2019/6/1721:40:07

    再びご回答ありがとうございます^^
    sanさんの知識の広さに感激します。

    行の滅の指摘については、行が無我であることを仰っていたのですね。
    この無我の理解が、主体と客体の境界を無くすということですよね。

    ティクナットハンさんの訳の「静める」は違和感がありました。一から七までで定を養い、自然と静まるという理解の方が正しいですよね。

    無礙解道は前から興味がありました。
    身行のついてはよく分かっていないです。

    ティクナットハンさんの説明では「四 全身を静める」
    呼吸が静まると、全身(体の活動)が静まると言っていますが、全身が身行ということでしょうか?

    その場合、身行と、「五蘊や十二縁起における行」の対応関係がよく分かりません。

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質問した人からのコメント

2019/6/21 19:50:28

sanさんの幸せを願っております。
苦しみから解放され、完全に自由になることを願っております。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

mir********さん

2019/6/1718:22:05

十二縁起をさとって独覚の境地に至る、独覚乗でしょうか?
止観の修行が進んで、智慧が自然に生じているのが良くわかります。
あまり言葉っちりに拘泥するのも違うような気もするので、細かい点は指摘しません
する資格もないですが、全体的に正しい覚りに近づいているように思います。
表現の仕方がどうのとか、あげ足とりはしたくありません。
国語の先生ではありませんからね。
要は、一切のものにとらわれない境地を体得されたなら、即ち
無明が滅して明が生じたことであろう、ということですね

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