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曹操が渭水で馬超韓遂率いる西涼軍にあと一歩のところまで追い込まれていた時に、...

fin********さん

2019/7/1322:47:34

曹操が渭水で馬超韓遂率いる西涼軍にあと一歩のところまで追い込まれていた時に、劉備諸葛亮と孫権の連盟が結託して曹操を攻めていれば挟み撃ちにできたと思います。

その頃、劉備と孫権は何をしていたのでしょうか?

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msz********さん

2019/7/1323:14:54

潼関の戦いは211年ですから、劉備は劉璋の求めに応じて益州に
向かっていました。
孫権は交州を呉の勢力下に置きました。
曹操討伐よりも勢力圏の拡大に動いていたということですね。

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ベストアンサー以外の回答

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te9********さん

2019/7/1323:52:27

曹操対馬超、韓遂は
211年3月〜9月ぐらいまでの期間です。
大体その頃に劉備は劉璋に招かれてます。

孫権は211年に呂岱ら二千を西方に送って
張魯を漢興郡
(益州北東〜荊州北西〜雍州の辺り?)
に出るよう誘いをかけてましたが
張魯が孫権の真意を疑ってかかり
道を断絶された、とあります。
孫権はそれを聞くと呂岱を帰還させました。
(三国志呂岱伝注)

三国志呉範伝によると呂岱が
白帝に寄ってますから
劉備軍が益州入りする際に
一枚噛んでたのでしょう。
(後に孫権軍の存在は法正が劉璋を脅すブラフにも使われてます。)

目的は対曹操に消極的な
張魯の兵を動かさせて
曹操を刺激し張魯を対曹操戦線に引き込む
ことでしょう。
周瑜戦略の名残かと思います。

元々は張魯討伐の名目で
曹操軍が動いてますから
小さなきっかけで戦端は開かれる…
と思ったのだと思います。

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