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2019/8/11 0:45

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刀狩りと太閤検地の際には領民の弾圧がえげつないくらいあったと聞いたんですが、

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

仲介者を減らす事で管理を一元化するという過程ででてくる抵抗勢力って事ですね。 現代社会の行政も同じ事やる必要ありますね、住基ネットはいったいなんだったんだ?て言うことありますもんね。

お礼日時:2019/8/11 11:28

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中世期に多く存在した独立した土豪・地侍は大名家中となるか、さもなくば武士ではなく農民になるかの二者択一を迫ったのが豊臣政権。 秀吉が出した「惣無事(令)・無事(令)」は、喧嘩停止令とも呼ばれたように、大名だけでなく、村の水利・境界を巡る争いの自力救済(双方が戦い勝利した側の主張を認める)を禁じに公儀(大名)の裁定に委ねるよう命じています。 この流れに沿って刀狩が実施されています。 「刀狩令」は各大名により、通達内容が異なり統一法令ではないようですが、刀・脇差を差し出せという内容で、弓・鑓・鉄砲などは対象外でした。 俗に「太閤検地」と一言で呼ばれる豊臣政権下の検地は、天正年間から慶長年間まで十年以上実施されていましたが、目的は下記のように理解しています。 作職をもって年貢を負担してきた一人の者に限定し、田畑の収益に対する加地子の権利(余剰分・得分)や、荘官職・領家職などの諸権利は全て排除して行った。つまり有力な名主(みょうしゅ)百姓がもとその下人であった百姓の田畑に対して様々な権利を行使することや、国人(土豪)が様々な権利を行使するという、中世的な土地支配のありかたを排除し、実際に田畑を耕作している百姓の権利を確定する目的があった。 大名家中とならない土豪・地侍は、農民身分への転換を迫られ、尚且つ既得権益も否定されれば一揆を蜂起させ抵抗するしかなかったのでしょう。 独立を認められていた土豪・地侍の独立性を否定することを弾圧と云えないこともないですが、関ケ原の合戦後に国替えの際の再検地の方がえげつないことをする大名がいました。