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赤壁の戦いって、演義では大分脚色がされてるらしいですけど、実際はどんな戦いだ...

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ID非公開さん

2019/9/114:09:32

赤壁の戦いって、演義では大分脚色がされてるらしいですけど、実際はどんな戦いだったのですか?

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te9********さん

2019/9/117:40:36

歴史書の三国志(陳寿が書いた)の記述を見る限りでは
以下のような流れかと思います。

1.諸葛亮の説得後、劉備の救援に周瑜、程普ら3万が(諸葛亮と一緒に)
夏口にいる劉備の下を訪れます。

2.赤壁という場所で連合軍が曹操軍と交戦し、
(既に疫病にかかっていたこともあり)、曹操軍は敗退し長江北岸に移ります。
周瑜らは南岸にいました。

3.周瑜の武将である黄蓋の提案した火計を実行し、船を焼き、
多くの死者を出します。

4.曹操は余った船を焼き退きます。死者は大半は疫病によるものでした。
これを連合軍は水陸両面で南郡まで追撃します。

5.南郡まで至ったところで曹操は北へ帰ることにします。
これの前後で孫権が合肥に張昭が九江を攻撃しましたが失敗しました。
この後江陵戦やら荊州南四郡の攻略やらに移っていきます。


しかしながら「江表伝」という歴史書では
孫権軍の積極的な活躍が誇張される一方で劉備軍がまるで活躍しなかったかのように描かれてます。以下は具体的なエピソードです。

・劉備は戦わず見てるだけだった(こんなこと言ってるのは江表伝だけ)
・孫権が勇ましく机を切って開戦を決めた(三国志では諸葛亮の説得が決定打)
・周瑜からは劉備に会おうとしなかった(三国志では劉備に"詣でた"とあります)
・劉備ではなく「周瑜に負けた」、と曹操が認識してる発言をする。


三国志諸葛亮伝に書かれてることですが孫権は劉備を冷遇するどころか
「劉豫洲でなければ曹操に対抗できるものはいない」と敬称で呼んで
頼りにしてました。そもそも劉備との同盟を重視しろ、と
魯粛も言っていました。武帝紀でも劉備に敗北した、とあります。
また、左将軍だった劉備は周瑜や孫権などよりずっと上の官位でした。
ということで少なくとも名目上は劉備が主将だったと思われます。


ちなみに他の歴史書では山陽公載記と呉書(三国志の呉志の元ネタと思われる)などで劉備が戦ったことが記載されてます。

以下は三国志の記述です。

三国志武帝紀(曹操の伝記)

秋七月、公南征劉表。八月表卒、其子琮代、屯襄陽、劉備屯樊。九月公到新野、琮遂降、備走夏口。公進軍江陵、下令荊州吏民、與之更始。乃論荊州服從之功、侯者十五人、以劉表大將文聘爲江夏太守、使統本兵、引用荊州名士韓嵩鄧義等。益州牧劉璋始受徵役、遣兵給軍。十二月孫權爲備攻合肥。公自江陵征備、至巴丘、遣張熹救合肥。權聞熹至乃走。公至赤壁與備戰、不利。於是大疫吏士多死者、乃引軍還。備遂有荊州江南諸郡


三国志先主伝(劉備の伝記)

遇表長子江夏太守琦、衆萬餘人、與俱到夏口。先主遣諸葛亮、自結於孫權。權、遣周瑜程普等、水軍數萬、與先主幷力、與曹公戰於赤壁、大破之、焚其舟船。先主與吳軍水陸並進、追到南郡。時又疾疫、北軍多死、曹公引歸。


三国志諸葛亮伝

先主至於夏口、亮曰「事急矣、請奉命求救於孫將軍」時、權擁軍在柴桑、觀望成敗。亮說權曰「海內大亂。將軍、起兵據有江東。劉豫州、亦收衆漢南、與曹操並爭天下。今操、芟夷大難、略已平矣、遂破荊州、威震四海。英雄無所用武、故豫州遁逃至此。將軍、量力而處之。若能以吳越之衆、與中國抗衡、不如早與之絕。若不能當、何不案兵束甲北面而事之。今將軍、外託服從之名、而內懷猶豫之計。事急而不斷、禍至無日矣」權曰「苟如君言、劉豫州、何不遂事之乎」亮曰「田橫、齊之壯士耳、猶守義不辱。況劉豫州、王室之冑、英才蓋世。衆士慕仰、若水之歸海。若事之不濟、此乃天也。安能復爲之下乎」權勃然曰「吾不能、舉全吳之地十萬之衆、受制於人。吾計、決矣。非劉豫州莫可以當曹操者。然、豫州新敗之後。安能抗此難乎」亮曰「豫州軍、雖敗於長阪、今戰士還者及關羽水軍精甲萬人。劉琦合江夏戰士亦不下萬人。曹操之衆、遠來疲弊。聞、追豫州、輕騎一日一夜行三百餘里。此所謂『彊弩之末、勢不能穿魯縞』者也。故、兵法忌之、曰『必蹶上將軍』且、北方之人、不習水戰。又、荊州之民附操者、偪兵勢耳、非心服也。今將軍、誠能命猛將統兵數萬、與豫州協規同力、破操軍必矣。操軍破、必北還。如此則荊吳之勢彊、鼎足之形成矣。成敗之機、在於今日」
權大悅、卽遣周瑜、程普、魯肅等水軍三萬。隨亮詣先主、幷力拒曹公。曹公、敗於赤壁、引軍歸鄴。

三国志呉主伝(孫権の伝記)

備、進住夏口、使諸葛亮詣權。權、遣周瑜程普等、行。是時、曹公新得表衆、形勢甚盛。諸議者、皆望風、畏懼、多勸權迎之。惟瑜肅、執拒之議、意與權同。瑜普、爲左右督、各領萬人、與備俱進、遇於赤壁、大破曹公軍。公、燒其餘船、引退、士卒飢疫、死者大半。備瑜等、復追至南郡。曹公遂北還、留曹仁徐晃於江陵、使樂進守襄陽

三国志周瑜伝

權遂遣瑜及程普等、與備幷力逆曹公、遇於赤壁。時曹公軍、衆已有疾病、初一交戰、公軍敗退、引次江北。瑜等在南岸、瑜部將黃蓋曰「今、寇衆我寡、難與持久。然、觀操軍船艦首尾相接、可燒而走也」乃取蒙衝鬭艦數十艘、實以薪草、膏油灌其中、裹以帷幕、上建牙旗。先書報曹公、欺以欲降、又豫備走舸、各繫大船後、因引、次俱前。曹公軍吏士皆延頸觀望、指言、蓋降。蓋、放諸船、同時發火。時風盛猛、悉延燒岸上營落。頃之、煙炎張天、人馬燒溺死者甚衆、軍遂敗退、還保南郡。備與瑜等復共追。曹公留曹仁等守江陵城、徑自北歸

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goo********さん

2019/9/115:28:14

小説では孝明の知略とされているが実際に作戦を建てたのは呉の周瑜。

また火攻め自体についても本当かどうかわからない。曹操側は敗北すら認めておらず、疫病の流行でしぶしぶ撤退したのだと。
蜀呉連合軍にとって都合のいい北向きの風が冬に吹くかどうか、など謎も多い。

sna********さん

2019/9/115:12:58

脚色と言うか赤壁に関しては記述がほとんど無いのです

周瑜伝が一番詳しいでしょう要約すれば
周瑜程普に劉備は赤壁で曹操と遭遇した、曹操の軍兵は疾病が生じ、初めに一たび交戦すると曹操の軍は敗退し、江北まで後退した。周瑜らは南岸に陣を敷いた。
周瑜の部将の黄蓋が 「今、敵は多く自軍は少ない、持久戦は困難です。観たところ曹操軍の船艦は首と尾を相い接しており、焼いて走らせられましょう」 かくして蒙衝・闘艦の数十艘を取り出し、薪草を中実とし、膏油をその中に灌ぎ、帷幕にて裹って上に牙旗を建て、先んじで書簡にて曹操に報じ、降伏したいと欺いた、 又た予め走舸を備え、各々を大船の後に繋ぎ、引き次いで倶に前進した。曹操軍の吏士は皆な頸を延ばして観望し、指して黄蓋が降ると言った。黄蓋は諸々の船を放ち、時を同じくして火を発した。時に風は猛く盛んで、悉く岸上の営落に延焼した。しばらくして煙炎は天に張り、人馬の焼溺した死者は甚だ衆く、軍はかくて敗退し、還って南郡に保った


武帝記
公至赤壁、與備戰、不利。於是大疫、吏士多死者、乃引軍還=曹公は赤壁に至って劉備と戦ったが、利がなく、大疫が生じて吏士の多くが死に、かくして軍を率いて帰還した

先主伝
權遣周瑜・程普等水軍數萬、與先主并力、與曹公戰於赤壁、大破之、焚其舟船。=孫権は周瑜・程普らと水軍数万を遣って先主と力を併せ、曹操と赤壁で戦って大破し、その舟船を焚いた

魏と蜀ではこれだけです

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