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馬超・馬岱・龐柔が劉備に帰順しても龐徳は帰順しなかったのはなぜでしょうか?

pwe********さん

2019/9/1400:56:02

馬超・馬岱・龐柔が劉備に帰順しても龐徳は帰順しなかったのはなぜでしょうか?

そして、関羽に捕えられた際、「蜀にはお前の元主君の馬超だけでなく、お前の従兄の龐柔もいる。どうか帰順してくれ」という関羽の言葉にも耳を傾けなかった理由も教えてください。

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tam********さん

2019/9/1412:01:35

乱世の三国時代の主従関係というのは代々というより、個人的関係に基づいたいた様に思います。龐徳は荒れていた涼州で当時勢力を張っていた馬騰に従っており、馬騰の下で忠実に働いていました。自分を取り立てて涼州を安定させていた馬騰に対しては素直に従えたのだと思います。

その馬騰が中央へ入朝したことで涼州の将軍職を継いだ馬超の下についたのですが、馬超が曹操の動きに疑心暗鬼に陥り反乱₍潼関の戦い₎を起こして、龐徳は配下として従いました。結局、曹操に鎮圧されて馬超と共に張魯の下へのがれますが、中央に出仕していた馬騰を含む馬一族はこの反乱を理由としてほぼ皆殺しにされます。₍三国志演技では馬騰が謀殺された仇討で兵を起こしたことになっていますが、史実は逆で馬超の反乱のせいで馬騰が殺された形です₎。龐徳がこのわがままで戦略もない馬超に悪い印象を持ったのは容易に想像され、恩のある馬騰が死んだのはどちらかというと馬超のせいと考えていたのではないかと思います。

張魯の下に入った馬超は兵を借りて魏を攻めますが敗戦を繰り返し、張魯から煙たがられるようになり、逃げるように蜀へ逃れます。劉備を慕ったというより、居場所がなくなっての亡命に近い形で、その際には妻子や配下の大半を置き去りにしています。龐徳も置き去りにされた一人で、馬超との関係も悪くなっていたと想像されます。自分は終わったと鬱屈している中、曹操が張魯を降伏させた際に馬騰時代からの活躍をほめられて配下に入った時点で、曹操へ忠誠を誓ったのは自然な流れなのかなと思います。

なので、質問の元主君の馬超達の名前を出された際の龐徳の気持ちですが、馬超の名前を聞くのも気分が悪い事だったんだと思います。馬超に関しては恨みはあれど、恩などない、というのが龐徳の気持ちだったのかなと思います。

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sna********さん

2019/9/1408:14:34

豎子、何謂降也!魏王帶甲百萬、威振天下。汝劉備庸才耳、豈能敵邪!
関羽の降伏勧告に対する返答の一部です

内容は
豎子め、なぜ降れなどと謂う! 魏王は百万の甲兵を帯び、威は天下に振っている。汝の劉備は庸才にすぎず、どうして敵対できようか

劉備の評価が低いです、龐徳が曹操に降った時は益州攻略中で結果も分からない、馬超自身の行動も大概畜生で付いていけない、馬超と違い曹操にくだっても許される公算が高い、劉備に降る理由が無いでしょう

曹操から劉備に降るのは節操がなさ過ぎて恥になるでしょうし

sub********さん

2019/9/1407:54:59

横山三国志より

龐徳は曹操の配下になり、馬超のいる劉備と戦う際、他の曹操の部下から疑いの目で見られていた

それでも、曹操は龐徳を疑わず用いた

龐徳はその事に深く感謝していた

関羽に捕らえられた時にも、もし関羽が同じ立場ならどうするか、と尋ねた

忠臣は二君に仕えず、という立派な人物でした

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