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改めまして、同様の質問をさせていただきます。 仏教学者の中村元氏の下記の解...

kar********さん

2020/1/1322:27:41

改めまして、同様の質問をさせていただきます。

仏教学者の中村元氏の下記の解釈について、知っておられる方は教えて下さい。

(引用開始)

https://blog.goo.ne.jp/wyatt9999/e/61e7ac62be7391d94a2d12f61edadfbf

初期仏教では、決してアートマンを認めていなかったわけではありません。倫理的な行為の主体として、自己(アートマン)を積極的に認めていたのです。

自己(アートマン)が善悪の行為の主体であるからこそ、修行者は真の自己を求めて修行に励み努めなければならないのです。 ・・・要するに、真実の自己を求めよというのが初期仏教の修行者の目標でした。

(中略)

このように理想的な倫理的な行為を実践する主体としてのアートマンを認め、本来の自己(アートマン)を追及していくことによって、現実の人生の苦を乗り越えていこうと、最初期の仏教では独自のアートマン論を展開していました。

しかし、決してアートマンを形而上学的実体と見なすこともせず、また「アートマンが存在しない」と否定もせず、アートマンの形而上学的な性質については完全に沈黙を守っていたのでした。

(引用終わり)

そこでの、倫理的行為の主体たる自己、というのは、五蘊と別なる主体、という意味で中村氏は言っているのでしょうか。

それとも、それが五蘊と別なる主体かどうか、ということも釈迦は明言していない、だから、それも分からない、と中村氏は解釈しているのでしょうか。

なお、以前の経緯は、以下のとおりです。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q112186940...

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q112187528...

それから、返信を拒否した設定で回答するということを繰り返す方がいらっしゃいますが、そういう人は、ご遠慮願います。

今後は、そういう回答は拒否します。

補足ところで、あの方の考え方の根本が分かってきました。それは、

>釈迦の説は、オリジナリティーゼロのアーリア回帰運動だった。

>真理にオリジナリティーがあるわけないでしょうが!

>ていううかさぁ、オリジナリティー あったら、ブッダではないでしょうもん。

という発言がそれです。

釈迦は、真理は一つと初期経典で言っています。釈迦以前にも仏が出現していたことも説いています。

でも、釈迦は、当時の思想宗教を全て学び、そのどれも悟りとは違うと梵網経で言ってもいます。

釈迦の言ってることは、不滅の実体たるアートマンの存在を説く既存のバラモン教と似ていますが、相違点もあるでしょう。

それは、釈迦は、過去の仏と同じ真理を言ってはいるが、その過去の仏のやったことが、既存宗教に正しく伝承されていなかったから、釈迦が説いたことが既存宗教が説いたことと微妙に違うものになったということでしょう。

だから、中村氏は、

>最初期の仏教では独自のアートマン論を展開していました。

と言うのでしょう。

よって、中村氏が、

>釈迦の説は、オリジナリティーゼロのアーリア回帰運動だった。

と解釈するとは思えないわけです。

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ベストアンサーに選ばれた回答

zys********さん

2020/1/1323:00:06

質問と関係ないので、あらかじめご容赦願いたいと思います。

あなたにとって中村氏はどういう存在なのでしょう?
もちろんブッダの代わりではないでしょう。
これまでのやり取りは、仏教側の言い分と、ヒンドゥー側の
言い分をそれぞれ言い放ったにすぎません。

anattāを漢訳して無我、非我、不我と訳したのは仕方がありませんが、
中村氏が「非我」と訳し、また中村氏自身が「真実の自己」と
言いながら、それは何かとは明確にしませんでした。
私は、有無二辺の中道、つまり概念からの解放が中村氏の
おっしゃりたかったことではないかと思っています。
しかし、中村氏亡き後、非我はアートマンの無いことを言って
いるのではない、という人たちが大勢出てきたように思います。
中村氏はあれだけ膨大な仕事をなさった人ですから、その影響力は
多大なものがあります。

karさんは宗教を実践なさっているのでしょうか、それとも哲学、
教学としてだけ学ぼうとしているのでしょうか?
教学としてだけの興味でしたら、何も言うことはありませんが、
実践なさっているのでしたら、どなたかがおっしゃっていましたが、
このやり取りは不毛のような気がします。
仏教の中でも大乗には「有」をほのめかす宗派や僧侶もいます。
ヒンドゥーの影響力、浸透力は根強いのです。
インド、仏教学者には中村氏を本尊としている人が沢山いますので
戸惑うこともあるとは思いますが、karさんが実践をなさっているの
でしたら、あまりこだわらない方がよい様な気がします。

  • 質問者

    kar********さん

    2020/1/1402:22:42

    中村氏は、経典の理解においてとても参考になる人、という感じですね。

    同様に、スマナサーラ長老も参考にさせてもらっています。

    瞑想実践もやっています。

    マイペースで、という感じですね。

    >中村氏が「非我」と訳し、また中村氏自身が「真実の自己」と
    言いながら、それは何かとは明確にしませんでした。

    >私は、有無二辺の中道、つまり概念からの解放が中村氏の
    おっしゃりたかったことではないかと思っています。

    同感です。

    今回は、中村氏の解釈に対して特殊な見解を示す人が現れたので、なぜそうなるのかと興味が湧いたものでした。

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質問した人からのコメント

2020/1/20 10:27:23

他にも参考になる回答がありました。ありがとうございました。

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strange eyeさん

2020/1/2006:54:39

仏典でのアートマンの語義は複数あります。

仮設された自己=個我は認めます。

ただ、真我を認めるかが問題です。

中村元さんの解釈は独特ですが、僕は賛成しないかなー。

中村元さんは日本の伝統仏教と整合的に解釈しようとする気がしています。お母様が真宗だったそうな。

この辺は揉めてますよね。ベックはヨーガよりの解釈だし。ドイツの学者はそういう感じですよね。

個人的には、プッタタート比丘の、「ニッバーナをアートマンと呼んでもいいのだが、人格化を避けて仏教ではそう言わない」という意見と、僕は同意見です。

ヒンドゥー教アドヴァイタの方だとアートマンと大乗仏教の空が同じだって人もいます。

この辺は瞑想で自分が体験すると理解がラクです。

学者は瞑想体験がないので、たまに変な事言ってます。

中村元氏はサティ=念についても誤解してた。テーラワーダなんかの知識が豊富な今から振り返ると他にも誤解はあると思います。

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man********さん

2020/1/1813:50:00

別IDで投稿します。あなたやzysさんに読んでほしい。
最近まで読めたんだけれど読めなくなったので一部をコピーしました。
50年前の論文です。

「根本仏教神話を非神話化しよう ー明治仏教百年の錯誤ー 」佐伯真光(一部)。
1968、昭和43年。

(『大法輪』昭和43年4月号、以外に単行本、佐伯真光『アメリカ式人の死に方』自由国民社に再録されています。)

日本仏教は堕落した仏教か

明治以後今日まで、日本の仏教界には一つの神話がおこなわれてきた。それは仏教が本来合理的、理性的、科学的な宗教であり、かつてインドには純粋で明澄な原始仏教なるものが実在したという神話である。姉崎正治はこのような理想的な仏教を<根本仏教>と名づけた。この神話を信ずる立場からみれば、仏教史は仏教堕落の歴史にほかならぬことになる。根本仏教は部派仏教に堕落し、小乗仏教という動脈硬化におちいった、この弊をすくうべく現れた大乗仏教も、インドの俗信に埋没して、右道・左道の密教となり、堕落の極、ついに仏陀の真精神はインドの地から失われた ー 巷間に行なわれる仏教概説書には大なり小なりこのような仏教史の図式がのべられている。この図式を信ずるかぎり、日本の仏教各宗派はいかに弁明しようとも、結局は本来の仏教から見れば異質的なものであり、堕落した一形態にすぎぬことになる。

明治以降の日本の仏教学者はこうした仏教史の図式を自明なものとして承認したうえで、それぞれの所属する宗派の教義と信仰が根本仏教と矛盾するものではないことを証明しようとしてきた。しかしこれは元来無理な注文というべきだ。「日本仏教は仏教にあらず。故に仏教なり」ということをいくら論証しようとしても、ナンセンスだからである。これは最初から負けることにきまっている戦いを戦うようなものである。だから明治以降の各宗派の学者や僧侶は、いつも劣等感に悩まされ続けてきたようにみえる。たとえば私の所属する真言宗では、毎年おこなわれる教学大会のシンポジウムで本尊統一論や現世利益、加持祈祷の是非が論じられているが、これも裏をかえせばそうしたコンプレックスと自信のなさのあらわれにほかならない。仏教堕落史の図式を受け入れる限り、日本仏教の各宗派には絶対に浮かぶ瀬がない。

しかし考えてみると、これはそもそもおかしいことではないか。我々は最初から仏教徒なのであって、大学で仏教史の講義をきいた結果、仏教徒になったのではない。本来仏教徒であるはずの我々自身が、他人から仏教史を教えられてコンプレックスに陥るという事態が異常なのである。仏教についてなら、仏教徒である我々自身を標準にすべきだという明瞭な真理を忘れて、我々は合理的宗教としての根本仏教という、外から与えられた物差しで自分たちをはかろうとしてきたのではなかろうか。このような本末顛倒の見解にとらわれていたから、日本の仏教学者は「日本仏教は仏説にあらず。故に仏教なり」という無理な論式を証明しようと躍起になっていたのである。このような偏見を除き去って、仏教徒が自分自身で考えることをはじめるならば、我々は「日本仏教は仏説にあらず」という命題の背後にある「根本仏教は合理的宗教なり」という前提が実は単なる神話にすぎなかったことに気づくのである。

理性的宗教としての仏教

いわゆる合理的宗教としての仏教と言う神話がつくりだされたのは、十九世紀のヨーロッパにおいてだった。ヨーロッパの学者が本格的に仏教に接触し、その研究をはじめたとき、彼等は、十九世紀合理主義の立場に立って、パーリ語文献のなかから好みに合う部分だけをひろい出し、まったく頭の中だけで純粋・明澄な原始仏教なるものを、虚構したのである。十九世紀といえば、近代ヨーロッパ思想の主潮流だった合理主義がその完成期に達した時であったし、またその立場からするキリスト教批判が最も盛んにおこなわれた時期にもあたっていた。この時に紹介されたパーリ語仏教はヨーロッパ人の目に驚くべき合理性をもった、新鮮な宗教体系として映じたのである。彼等はこの中に、ヨーロッパの<非合理的な>宗教には見出されないユニークな法則化認識を求めて、四諦・八正道・三法印・十二縁起などという教義をひろい出し、このような<近代的思惟>をうみ出した古代の東洋の智慧に随喜した。今からみると、オルデンベルク、ノイマン、ガイガー、ヴィンテルニッツ、初期のリス・ディヴィズ等によって描かれた原始仏教の世界は、彼等自身の先入観の無意識的な投影だったのである。彼等はパーリ仏典を彼等自身の思想的立場から勝手に<解釈>していたにすぎない。

こうした事情は、十八世紀にヴォルテールなどの啓蒙思想家やアンシクロペディストたちが、中国の古代儒教のなかに理想的な合理主義・道徳主義的宗教の典型を見出して随喜したのと、極めて類似している。合理的宗教としてのパーリ仏教の発見は、それの十九世紀版だといってよい。両者に共通しているのは、古代の東洋にユートピアが存在したという、ヨーロッパ人の東方憧憬のロマンティシズムである。未知の文化にはじめて接触したとき、そのなかの美点だけが拡大されて目にうつるという過ちから十九世紀の合理主義者たちも自由であることはできなかった。

しかし、このような先入見にみちたヨーロッパ人の仏教観は半世紀も続かなかった。パーリ文献から、サンスクリット、チベット語文献へ、さらにシナ、日本の仏教へと欧米人の視野が拡大し、欧米の学者が漢訳大蔵経を読みこなすようになると、事情は一変した。これはまたヨーロッパ仏教学の主流が、ドイツ・イギリス系学者の手から、フランス・イタリア・ポーランド系学者の手へ ー すなわちプロテスタント系からカトリック系へ ー と移った事情とも平行している。今世紀に入ってからは、仏教をインド思想の流れの一環として、あるがままの姿でとらえようとする立場がヨーロッパの学界では確立した。パーリ文献を虚心に読むならば、そこには必ずしも倫理宗教としての仏教ばかりでなく、古代人ならば当然抱いたであろうような無知や俗信が混在していることがわかる。そして古代人の一人だった歴史的仏陀が十九世紀合理主義者と同じように思索し行動したと考えることのほうが、むしろ不合理だということがわかるだろう。

こうした仏教観を一番はっきりと打ちだしたのは、仏教学のポーランド学派の祖ともいうべきスタニスラフ・シャイエルであろう。彼は初期の著作『救済教としての大乗仏教』以来、『東方の諸宗教』におさめられた晩年の論文にいたるまで、一貫して、仏教は単なる倫理教であったことはなく、最初からそれ自身の神話と祭儀と救済の教義を持った宗教であったと主張してきた。彼の所論は要するに、小乗仏教のあとに大乗仏教がくるのではなく、多くの神秘的教義を含んだ大乗仏教こそ、最初期の仏教に直接由来するものだという点にある。彼は如来信仰が仏陀以前からインドに存在していたとする一方、いままで原始仏教の根本教義とされてきたような合理的教義、たとえば無常・無我・涅槃(ねはん)等は本来の仏教のものではなく、のちに仏教教団が現実の生活から遊離し、僧侶が僧院で孤独な冥想にふけるようになってから創作され、パーリ経典に付加されたのだと考える。すなわち、彼によると仏教史の順序は、小乗から大乗へ、ではなく、大乗から小乗へ、となる。ポーランドの生んだもう一人の偶像破壊者コペルニクスと同じように、シャイエルは仏教史の図式を逆立ちさせたのである。
追記:[Stanisław Schayer (1899-1941)]

シャイエルの個々の議論にはいろいろの問題があるのはたしかだが、彼によって代表される一群の学者の出現によって、原始仏教神話が完全にうちくだかれ、第二次世界大戦後には合理的宗教としての原始仏教を説くような「神がかり的」な学者はヨーロッパでは一人もみられなくなったことはたしかである。欧米仏教学の解説付綜合論文目録であるビブリオグラフィ・ブディクをみれば、そのことは極めて明瞭である。そして文献研究の進展とともに、

今まで最古層の仏教文献とされてきた法句経やスッタ・二パータを仏陀金口(こんく)の直説とする考えも次第に根拠をうしない、歴史的仏陀の人間像は沙門文学の伝承中に解消していきつつある。

非神話化から実存論的神学へと展開したキリスト教の場合と非常に類似した状況が仏教についても起こってきた。

中略

根本仏教神話の輸入

中略

ヨーロッパに留学した姉崎正治は、パーリ語文献という新しい仏教研究の分野を紹介すると同時に、ヨーロッパ人が虚構した原始仏教観をも輸入して、これを根本仏教と名づけた。彼はこれによって錯雑した仏教発達史の根本に純粋な仏陀の人格と教説があったと主張し、仏教統一の夢を実現しようとした。彼およびその亜流はこの根本仏教を叫ぶことによって、仏教が現代人の思考に最も適した合理的宗教であり、国学・儒学・キリスト教の何れよりも近代的であることを証明しようとしたのである。その証拠は何よりも、ヨーロッパ人が原始仏教の教理に感嘆し、彼地に一種の<仏教ブーム>がおこっていることからも知られる、と彼等は暗示するのを忘れなかった。すなわち彼等は、自分自身の主体的な問題を自分で考えぬこうとはせず、借り物のヨーロッパ合理主義で解決しようとした。そしてそれを日本人一般の西洋崇拝によって巧みにすりかえて、平然としていたのである。そしてその合理的原始仏教なるものが、当時のヨーロッパ人の仏教理解の限界を示す神話にすぎなかったことには気がつかなかった。


後略。

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sam********さん

2020/1/1714:53:24

中村元の呪縛はどうにかしないと見当はずれの不毛な努力を一生続けることになる。

吉川幸次郎というシナ文学の先生がいて同僚の京大教授のことを書いていました。「同僚のA教授と話をすると、4,5日前に王安石に逢ってきたかのように話す」
京大教授でなくても「まともアタマ」の人間が歴史上の人物を「敬愛」し学べば「その人」のことは「それなりに」見えてくる。

後に文化勲章を受章する東大教授が釈尊を敬愛し(本人は本気で敬愛してるつもり!!コワッ!!!釈尊も迷惑・災難!!)多分世界一の膨大な情報量の知識を集積した結果「4,5日前に釈尊に逢ってきた」かのように導いた結論は

「釈尊とは善友である」!!!!!!!

「殿!!ご乱心!!」「お気を確かに中村元先生!!!」「脳停止!!救急車!!」

「釈尊は善友である」に同調する仏教学者っているんですか??
あなたは「テーラワーダは外道である」には同調できないが「釈尊は善友である」には同調できる???

kar********さん、ご乱心、お気を確かに!!医者に行ったほうがいい。

いつだか書いたけれど、
普遍・一般・抽象・法(ダルマ)➡、、、、➡個・特殊・具象・仏(ブッダ)。

存在➡生物➡動物・衆生➡人間・凡夫➡ポジティブな凡夫(善友・智者・賢者)➡聖者(二乗・独覚・求道者)➡聖者(菩薩・如来・救済者)。

前者は上位概念、後者は下位概念。
前者はより普遍的・一般的・抽象的、後者はより個的・特殊的・具象的。
前者はより情報量が少ない、後者はより情報量が多い。
前者は数が多い。後者は数が少ない。
鈴木大拙「悟った人は洋の東西を問わず何千人もいる、仏教がなくても禅がなくても悟れる」(取意)
独覚・求道者が何千人いても仏教の開祖=如来・救済者は釈尊一人だけ。

前者から後者になるのが向上、進化、文化でしょ。存在は生命になるべき、、生命は人間に進化すべき、、人間は求道者になるべき、、求道者は救済者になるべき。

中村元の矢印は反対を向いている!!堕落、退化、劣化!!!

我々が仏教を学ぶとき仏教【だけ】仏教【のみ】の不共(ふぐう、共通しない)殊勝、未曽有(過去にない、初めて)な個性・特殊性・具象性を追求すべきです。
法(ダルマ)普遍性・共通性【同じ】求めず仏(ブッダ)個性・不共性【ちがい】を求めるべきです。
情報量を減らしたら回復できません。劣化は避けるべきです。
情報量を増やすのは「創造」です。
私見ですが「不二一元論」で「創造=優化」はできません「創造=優化」が実現するのは「縁起説」なのではないか?と思います。

どうでもいいけれど渡辺照宏『新釈尊伝』を一読することをお勧めします。
中村元『ゴータマ・ブッダ』I,II.は読んでるんでしょ?
あんな「痩せすぎたブッダ」ひたすら情報を劣化させる空虚な大作がよく読めるね!!ヒマですか??
『新釈尊伝』は貴重な情報に触れられる、降魔成道の時、菩薩は右手で地面に触れる「蝕地印」の形、それが何で降魔になる?。
釈尊は弟子入り希望者に「エーヒビッカウェー」(来たれ比丘よ)と呼びかける、がアーナンダとデーヴァダッタは呼びかけられなかった。等々。
『ゴータマ・ブッダ』が白黒なら『新釈尊伝』はカラーだ。
面白いと思います。

zys********さんへ

あなたが仏教徒じゃないから外道が気になる。仏を持っている仏教徒にとって法しかもっていない外道なんて持たざる者、貧乏人、足で触る価値もない、住んでる世界が違う、問題外、無視すれば良い。
あなたが仏を持っていない外道だから外道に絡まれ、みっともない命乞い、女女しい泣き言を言う。
絡まれるのは自己責任。
私なんか絡んでほしいんだけれど100倍返しするからあなたも含めてみんな逃げちゃう。

いつだか投稿してたでしょ、
(取意)釈尊が入滅すると弥勒が成仏するまで娑婆は無仏の世界、56億年待っていられない一部の人が「そんなら仏を作っちゃえ」と架空の仏(阿弥陀如来や大日如来)を作った。
⇒自分は架空の仏なんか創作しなくても法・真理があるから平気。だから外道。

自分は女女しい他力の被救済者ではない、雄々しい自力の求道者・ストイックな犀の角・救済者なんて要らない、無師独悟、無仏独悟。だから外道。

外道とは仏を必要としない人。あなたのように56億年待てる人。
仏教徒とは仏を必要とする人。わたしのように1秒も待てない人。

架空の仏を作らずにいられない人が仏教徒、仏教の正機。
あなたは法があれば仏が要らない人だから法教徒、外道。

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nao********さん

2020/1/1521:49:19

こんばんは!
なっちゃんです!

私も、質問と関係ないので、あらかじめご容赦願いたいと思います。ここ最近の無我と非我のやり取りを読んでいる方々は、きっと混乱を起こしているのではないでしょうか? 仏教における無我とはどういうものなのかをお伝えしたいので、龍樹菩薩の著『中論』の中の「アートマンの考察」を取り上げてみます。龍樹菩薩は、大乗の祖といわれ、日本においては「八宗の祖師」といわれていますから、ご存知の方も多いと思います。


18-6
諸佛或説我 或説於無我
諸法實相中 無我無非我

諸仏は或は我と説き 或は無我と説く
諸法の実相中には 我無く 非我無し


諸仏は、ある時はアートマンを説き、ある時はアナートマンを説きます。世界をあるがままに観れば、アートマンは無く、アナートマンもまたありません。ブッダは、人々を真理に導くために、アートマンを肯定するのが相応しい人には、アートマンを肯定し、アートマンを否定するのが相応しい人には、アートマンを否定します。しかし、真実としては、アートマンは無く、アナートマンもありません。

アートマンに執着する者にはアナートマンを説いて、執着から離れさせます。それなのにアナートマンに執着するのならば、ブッダは導きようがありません。無我であれ、非我であれ、無執着へと導くために説かれたのです。その言葉に執着しないことが大事です。



ついでに、『中論』の中の「アートマンの考察」の全偈をご紹介します。

18-1
若我是五陰 我即爲生滅
若我異五陰 則非五陰相

若し我は是れ五陰ならば 我は即ち生滅と為す
若し我は五陰と異ならば 則ち五陰の相に非ず


18-2
若無有我者 何得有我所
滅我我所故 名得無我智

若し我の有ること無くんば 何んが我所有るを得ん
我我所を滅するが故に 無我の智を得と名づく


18-3
得無我智者 是則名實觀
得無我智者 是人爲希有

無我の智を得れば 是れ則ち実観と名づく
無我の智を得れば 是の人を希有と為す


18-4
内外我我所 盡滅無有故
諸受即爲滅 受滅則身滅

内外の我我所の 尽く滅して有無きが故に
諸受は即ち滅せられ 受滅すれば則ち身滅す


18-5
業煩惱滅故 名之爲解脱
業煩惱非實 入空戲論滅

業と煩悩と滅するが故に 之を名づけて解脱と為す
業と煩悩とは実に非ず 空に入りて戯論滅す


18-6
諸佛或説我 或説於無我
諸法實相中 無我無非我

諸仏は或は我と説き 或は無我と説く
諸法の実相中には 我無く 非我無し


18-7
諸法實相者 心行言語斷
無生亦無滅 寂滅如涅槃

諸法の実相は 心行言語断じて
無生亦た無滅 寂滅なること涅槃の如し


18-8
一切實非實 亦實亦非實
非實非非實 是名諸佛法

一切の実と非実と 亦実亦非実と
非実非非実とは、是れを諸仏の法と名づく


18-9
自知不隨他 寂滅無戲論
無異無分別 是則名實相

自ら知りて他に随わず 寂滅にして戯論無し
異無く分別無し 是れを則ち実相と名づく


18-10
若法從縁生 不即不異因
是故名實相 不斷亦不常

若し法は縁より生ぜば 因に不即不異なり
是の故に実相と名づけ 不断にして亦た不常なり


18-11
不一亦不異 不常亦不斷
是名諸世尊 教化甘露味

不一にして亦た不異 不常にして亦た不断なる
是れを諸の世尊の 教化の甘露味と名づく


18-12
若佛不出世 佛法已滅盡
諸辟支佛智 從於遠離生

若し仏出世せず 仏法已に滅尽せば
諸の辟支仏の智は 遠離より生ぜん


以上です。
参考になれたなら嬉しいです。

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sag********さん

2020/1/1422:42:32

>>中村氏は、経典の理解においてとても参考になる人、という感じですね。 同様に、スマナサーラ長老も参考にさせてもらっています。

・・・・・・

やはり、スマナサーラに洗脳されてたのか。
それも、テーラワーダでは異端派のスマナサーラ君の弟子を自認してるんですね。
ついに正体をあらわしましたね。

スマナサーラ君の中村博士の認識は私と同じなんだよな~(笑)
彼とは、大いに語りあったんですが・・・・笑えるわ!

中村元とスマナサーラは水と油なんだけど・・・
スマナサーラ君は中村元を支離滅裂に批判してるのしらんのかいな。 君たち師匠の意見くらい学ぼう。 不詳の弟子だね。

タイのテーラーワーダ仏教僧プッタタート比丘はテーラーワーダ仏教における涅槃をアートマンと呼んでも良いのだが、仏教では人格化を避けてアートマンと言う言葉を使わないのだと認めてるんだよね。

中村元博士がどんだけ世界に影響与えたかわかっちゃいないな~

テーラワーダ仏教とヒンドゥー教不二一元論が最前線なのですが・・・

スマナサーラ君がどんだけ色んな意味でテーラワーダ内部で批判されてのか知ったら、洗脳とけるだろうけど、まあ個人攻撃になるからやめます。

個人崇拝はよしたほうがいいよ

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