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鎌倉時代、地頭は担当している荘園または公領から年貢を徴収し、幕府に納めていた...

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ID非公開さん

2020/1/2316:00:03

鎌倉時代、地頭は担当している荘園または公領から年貢を徴収し、幕府に納めていたようですが、

❶新補地頭以前の地頭の給与はあったのでしょうか?
❷地頭がいる荘園公領で田を耕している農民は地頭への年貢と荘園もしくは公領への年貢の2つを払っていたのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

編集あり2020/1/2317:47:18

違います。
幕府には収めていません。
地頭というのは、京都貴族の私有地である荘園の管理官です。年貢は基本的に荘園領主に納めます。
この管理官の地位は、とってもオイシイわけです。これはかつては京都から派遣されていたわけですが、幕府ができて「いやいや、関東のことは、地元のワレワレにお任せください」って、幕府が任命権を奪ってしまったわけです。
源頼朝は京都生まれで、子供のころ、上皇の姉のもとに出仕していたこともある、正真正銘の貴族です。平将門とは違って、京都の上皇や貴族にとっては「仲間」なんです。関東に独立自治政府を作るときも「あの頼朝がトップなら、まあ、仕方ないか、そうヒドイことはせんだろう」ということで、鎌倉幕府(とのちに呼ばれるもの)が認められたんです。もし関東地生えの北条あたりが「私がトップです」といったら、朝廷は認めなかったでしょう。
というわけで、将軍頼朝は、地頭たちに「京都への年貢はちゃんと送るように」と厳命します。つまり、まずは妥協しとこうぜ、朝廷とケンカしないように上手くやろうぜ、ってことです。
もちろん、時代が進むにつれて、そんな約束はだんだん反故にされ、荘園は「地頭の独占領地」みたいになっていくわけですけど。
御家人たちは、幕府に年貢を納めるのではなく、「いざ鎌倉」という動員がかかったときに自前の軍隊で馳せ参じる、というのが義務です。これが「封建制度」の基本です。
では、幕府はどうやって運営されていたかといえば、頼朝は「関東御分国」といって、関東一円の知行国主の地位を手に入れていました(知行国制について説明すると長くなるのでまたいずれ)。つまり関東一円の国司任命権を持ち、その国司たちが(わずかではあっても)公領から得た収入を得ることができました。また、幕府の中核を担う北条だ三浦だという御家人たちが自分の領地からの収入を「持ち出し」で参加していました。
将軍が御家人から年貢を取ったら、それは大げさにいえば「郡県制」になってしまいます。これは封建制度の理念とは真っ向反するものです。

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che********さん

2020/1/2915:56:48

一口に地頭といっても、いろいろ。荘官系、在庁官人系、新補系。バックグラウンドによって収入源もいろいろ。また、農民といってもいろいろ。在地領主~小作まで幅が広い。

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edo********さん

2020/1/2316:23:05

地頭は公領から徴収した年貢の一部を給与としていました。

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