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正史三国志について質問です。 魏王曹丕が禅譲を受け皇帝となり、劉備がそれを受...

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ID非公開さん

2020/2/2010:25:42

正史三国志について質問です。
魏王曹丕が禅譲を受け皇帝となり、劉備がそれを受け漢の皇帝を名乗った時、漢臣として魏を見限って蜀に移った人物はいなかったのでしょうか?

姜維や夏侯覇は信条による亡命ではなく降将ですよね?
よく蜀はその成立過程から国として纏まり続けるには、魏を否定して漢の復興するという姿勢を見せる為に、北伐をし続けなければいけなかった、というような話を聞きますが、蜀の臣下は自分たちは蜀に仕えてるのではなく漢の忠臣だという意識は高かったのですか?そういう漢の忠臣たちがたまたま荊州や蜀にいたという事?

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ste********さん

2020/2/2100:41:01

>漢臣として魏を見限って蜀に移った人物はいなかったのでしょうか?

基本的にいませんでした。

>蜀の臣下は自分たちは蜀に仕えてるのではなく漢の忠臣だという意識は高かったのですか?

これは、誤解されています。
「蜀」とは通称です。
劉備たちは「漢」という国号を掲げていました。
ですから、皆が漢の臣下としか思っていませんでした。
劉備たちは「漢」と自称してますが、魏からすれば
漢はとっくに滅びているため、そんなものを認めることはできません。
ですから、地方名である蜀と呼んだわけです。
結果として、魏を受け継いだ晋の官僚だった陳寿が著した
歴史書の『三国志』も、魏書・蜀書・呉書となっています。
もともと蜀漢の出身者である陳寿でも、建前上、蜀を漢とは
呼ぶことができなかったわけです。

三国時代とは、皇帝が三人もいる異常な時代です。
それぞれの皇帝は、自分だけが正統な皇帝であり、
それ以外の皇帝は偽の皇帝とみなしました。
当然、それぞれの国は相手国を承認していません。
魏から見れば、蜀漢と呉は反乱勢力でしかありません。
逆もしかりです。

これは、現代の中国でも同じ構造があります。
中華人民共和国は中華民国を承認していません。
逆も同じです。

>そういう漢の忠臣たちがたまたま荊州や蜀にいたという事?

違います。
まず、蜀漢に所属していた人物が、漢の忠臣といえるのかどうかが
微妙です。
劉備が帝位につく口実にしたのは、献帝が殺害されたという情報でした。
実際には献帝は殺されていませんでした。

劉備たちは、献帝の退位と曹丕の皇帝即位を否定する
立場にありました。
しかし、献帝が生存しているとなると、献帝は退位してない
という建前になるはずです。
こうなると、劉備は皇帝を僭称したことになってしまいます。
これでは問題になるため、献帝が死んだという設定にしてしまった
のでしょう。

少なくとも、劉備の血筋では皇帝に即位することは問題がありました。
それは劉備が漢の皇族の血筋を引いているかどうかが怪しいからでなく、
劉備程度の血筋は履いて捨てるほどいたからです。

君主制の世襲は、古今東西、直系の子孫というのが常識です。
献帝の後を継ぎたければ、献帝の直系の子孫か、最も近い血筋の
親族でなければなりません。
劉備はどちらでもない、かなり血縁関係の薄い親戚という程度でした。

劉備(さらに劉禅)を皇帝に擁立した蜀漢の人士たちは、
かなり危ない橋を渡っていたことになります。
漢の忠臣どころか、帝位僭称者を担いで、
自分たちこそが正統な漢の後継者と名乗っている集団でしか
ありませんでした。

そして、蜀漢の有力者たちはそれを自覚していたからこそ、
献帝が殺されたという嘘を口実にして、劉備を皇帝に即位させたのでした。


で、元に戻ります。
後漢末期に、曹操が権力を握り、魏公に封じられ、
さらに魏王に昇進しました。
魏公になった段階で、曹操は独自の所領を与えられています。
曹操の所領が漢の内部にある魏国になります。
漢魏革命とは、この魏国が漢を乗っ取ってしまう出来事でした。

曹操が魏公に封じられ、魏国が封建されると、
魏国に仕える官僚と、漢の中央政府に仕える官僚とが
並立するようになりました。
最終的に、曹丕が後を継ぎ、漢の中央政府を解体し、
それを魏の政府に吸収するという作業を行っていきました。

この時、漢への忠誠を持ち続けているかもしれない官僚を
チェックする必要がありました。
そのためのシステムが九品官人法だったと考えられています。

漢代に行われていた郷挙里選と、魏以降の旧品官人法は
基本的に推薦制の人材登用制度という共通点があります。
わざわざ制度を新しくしたのは、漢の忠臣でなく
魏の忠臣ですよね、というチェックを行うためだった
のではないか、という説があるわけです。

>魏を見限って

曹操による漢の簒奪に反対した人はたくさんいました。
その大半は、後漢末期に曹操に対する反対運動(クーデタ)
などを起こしており、ことごとく弾圧されています。
ですから、曹丕が帝位に上った時点で魏に反抗的な官僚は
残っていなかったと考えてよいでしょう。

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kum********さん

2020/2/2013:14:14

大多数の人は別に漢の忠臣だった訳ではなく、その時のトップがたまたま漢の後を継いだ、と言うだけの認識だと思いますね。実質的に漢はもう死んでいる、と言うのはほぼ共通の認識だったと思います。

ただ、新しい国を建てる訳ですから、どこも大義名分が必要なんですよ。

そう言う意味で蜀は劉備が劉姓だったから分かり易かった。ただまあ所詮建前ですから、今仕えている君主を見限るほどでは何処もなかったってことですね。大規模な内乱とか権力闘争とかがあった訳ではなく、どこもそれなりに安定していたのですから。

kil********さん

2020/2/2013:04:13

魏を倒し漢を復興すると本気で考えてたのは、劉備玄徳・諸葛亮孔明・関羽・張飛・趙雲位でしょう! 。ほとんどの蜀の臣達は、蜀の様な小国が何倍もある魏を倒せるとは、誰も本気で思っていなかったはずです! 。だから、劉備玄徳の死後、諸葛亮孔明は、無謀とも思える魏を倒す為に五度の北伐に向かうのです。それこそが、諸葛亮孔明が劉備玄徳から託された使命であり玄徳の君恩に報いる為には、それしかなかったのです。だから、孔明は魏を倒す為に自分の体を犠牲にしてまで、魏と戦ったのです。自分の体が病に侵されながらも、玄徳や自分の漢の復興と言う大義と使命の為に、孔明は戦い続けたのです。それは、座して亡びを待つより出でて活路を求めんが、孔明の考えだったからです。しかし、孔明の奮闘空しく五度の北伐は、失敗孔明自身も五丈原で、志半ばで54歳で亡くなりました~・・・ 。結局孔明の死後蜀の力は衰え30年後の263年に蜀漢はわずか2代43年で滅びました~・・・ 。遂に、漢の復興は叶いませんでした~・・・ 。

2020/2/2011:03:57

北伐を続けなければいけなかったのは、攻撃は最大の防御という考え方からではないでしょうか。座して滅びるよりましだということだと思います。
あと、この時代に漢の復興を願って命を懸けることはなかったと思いますよ。平和な新しい時代を作るためだったと思います。黄巾の乱がそれを象徴しているのではないでしょうか。

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