キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教では、「疑い」はどのように扱われているのでしょうか

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教では、「疑い」はどのように扱われているのでしょうか カトリックの知り合いは「疑いというサタンが現れても主と共に戦う」という信仰告白をすると言っていましたが、プロテスタントやイスラム教などでは「疑い」と「救い」「罪」の関係はどうなっているのでしょうか

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ベストアンサー

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疑いは罪ですが、一度救われれば救いが取り消されることはありません。 神様に祈って助けを求め、共に戦うというのは模範的な信仰生活だと思います。 ちなみに救いの条件は福音の3要素を信じることです。 疑いだけなら救いはなくなりません。しかし、やはりイエス・キリストは救い主でないと思い始めたのならそもそもその人は初めから救われていなかった(本当の意味で信じていなかった)可能性が高いです。一度救われればなくなることはないはずだからです。

その他の回答(3件)

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アブラハムの妻サラが高齢で、神様から子が生まれるということを聞かされ、「そんなことがあり得ましょうか」疑い笑いました。しかし神はサラを罰したでしょうか、約束を重ねて説明し、祝福しました。「疑い」について人が当然抱くであろう気持ちを神様は百も承知です。神様を信じ愛しているという前提の下で「疑う」ということは決して罪でもありません。もちろんそういう意味で「疑うクリスチャン」が救われないということはありません。

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人間ならば通常、どんな書物を学んでも、 「どう考えてもそれは正しい」「どちらかというと正しいと思う」 「どっちとも言えない」「どちらかというと間違っていると思う」 「どう考えてもそれは間違っている」といった具合に、 その部分部分において、肯定的なものから否定的なものに至るまで、 判断に様々な程度の差が出てくるものです。 その教義の信仰者ならば、 自分の心の中で否定的判断を抑圧するでしょう。 「わからないのは自分がまだ成長していないからだ」 「今はわからないけれど、そのうちわかるようになる」 「そういうふうに言われているのは 人間にはわからない深い神の理由があるのだ」等々。 しかし、教義の奴隷ではなく、 真理の探究者(疑って調べたり吟味したりする)となったのならば、 自分の心に正直に判断を下すことができます。 「教祖の言うことだろうが、誰の言うことだろうが、 間違っているものは間違っているのだ。キチガイの言うことだろうが、 悪人の言うことだろうが、誰の言うことだろうが、 正しいものは正しいのだ」と。

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「疑い」って言うと「不信仰」のお様に捉われますが…「疑問」は多いにもって良いと考えてます。 天地創造だって「???」です。やはりどの様にされたのか興味出ますからね… 個人的に、「疑い」は、解決されるものと考えます…答えを得られるものかも知れません…其れに寄って、更に信仰が確かなものにされるからです。