栃木県の那須塩原市って、戦国時代は那須氏が治めていたのですか?

栃木県の那須塩原市って、戦国時代は那須氏が治めていたのですか? 那須氏は、最盛期どれくらいの石高を有しましたか?

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>栃木県の那須塩原市って、戦国時代は那須氏が治めていたのですか? 宇都宮氏、佐竹氏、結城氏などと抗争状態で、戦国時代を通じてずっと那須氏の所領ということはないでしょう。ただ、那須氏は戦国時代、分裂しながらもずっと那須郡の大部分を治めていたようです。 まず応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で那須家は上の荘(上那須家)と下の荘(下那須家)とに分裂していました。そして応仁の乱の時代に関しては、『大日本租税志』収録の応仁中(1467年~1468年)の諸家領地によると https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800003/127 下野那須郡下之莊 合田五二千百五十町 下野烏山 那須越後守資持 石高制導入の前ですが、ここであえて1町≒12石と見積もりますと、石高6万3000石相当です。 やがて永正13年(1516年)に烏山城の下の荘の那須資房が上・下両那須家を統一しました。ここで『国史大辞典』の「那須郡」の項目によると「室町時代から戦国時代の間、上・下両那須に分裂したが、統一され烏山八万石になった。」と書かれていますが、この石高制導入前の石高の根拠は示されていません(文責:渡辺竜瑞、『栃木県史』が参考資料として挙げられている)。 続いて小田原征伐の天正18年(1590年)の石高は、 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800003/132 下野那須 合高六万千五百石 那須白佐 小田原征伐に参戦しなかったため、那須資晴は所領を没収されますが、息子の那須資景が江戸時代に1万4000石の大名となり、さらにその息子の那須資弥は烏山藩2万石を与えられます。しかしなら貞享4年(1687年)にお家騒動のため改易となり、幕末まで1000石の旗本として存続します。 というわけで、多少元文献に怪しいところがありますが、那須氏の石高として最大となるのは、1590年の改易直前の那須資晴6万5000石で、石高制導入前の最盛期だと、1516年に上下那須莊を統一した那須資房が8万石相当の領地を治めていたということになるようです。

【訂正】すみません結論のところの「1590年の改易直前の那須資晴6万5000石で、」は「1590年の改易直前の那須資晴6万1500石で、」の書き間違いです。