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2020/8/8 19:58

44回答

吉川英治さんの三国志に、赤壁の戦いの論功行賞の場で、孔明が関羽に対して、「おお、羽将軍」と、おそらくは親しみを込めて呼ぶシーンがあったと記憶してますが、細かくいうと、孔明と関羽の立場を考えて、適切な呼

吉川英治さんの三国志に、赤壁の戦いの論功行賞の場で、孔明が関羽に対して、「おお、羽将軍」と、おそらくは親しみを込めて呼ぶシーンがあったと記憶してますが、細かくいうと、孔明と関羽の立場を考えて、適切な呼 び方なのでしょうか。 小説内では、孔明の方が劉備の顧問的な役割なので、精神的な立場は関羽より上かもしれませんが、この時の関羽が正史でもらっていた位や年齢、または今でいう勤続年数みたいな事を考えると、羽将軍と呼ぶのはどうでしょうか。

中国史 | 小説77閲覧

ベストアンサー

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このシーンでは、「羽将軍」、「関羽どの」、「関羽」(呼び捨て)と、呼び方が変わって行きます。 孔明が本気で怒っている事がよく描写されていると思います。 関羽は、曹操配下だったときにも曹操から「羽将軍」と呼ばれていますので、これは、適切な表現だと思います。 もちろん、史実としてのこととは別に、歴史小説としての、ことですが、…。

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質問者

2020/8/9 12:29

なるほど、呼び方が変わっていくのが、孔明の怒りを表現する手法でしたが。まったく気が付きませんでした。ありがとうございました!

ThanksImg質問者からのお礼コメント

遅くなりましたが、ありがとうございました。

お礼日時:9/12 1:25

その他の回答(3件)

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あくまで小説だから細かいことは気にしなくてもいいと思うな 吉川氏にしても三国志演義の壮大さに惚れて日本に紹介したというのが そもそもだから 正史三国志では孔明というのは文官であって、徴税と戸籍の編纂について功績が述べられているが、軍隊指揮はしない 中国は文官と武官が分離されているので、そもそも孔明が軍事に口出すことはない 司馬懿は武官であって、三国志演義では、孔明のライバルとしての描写だからああなる 三国志演義はそもそも金に侵略されて蜀の位置に押し込められた宋において 書かれたプロパガンダ小説が唐代に編集されたものであって(唐代でよかったっけなW)正史とは当然異なる 吉川氏の三国志というのは、日本人の感覚や理解に妨げになるところを 書き直しているところに特徴がある(本人のコメントである) ただ丸写ししたわけではないわけね ただ吉川氏が理解し損ねたところは 孔明の南征のときの「戦車」「木流牛馬」というもの 戦車については、火炎放射戦車みたいなイメージだが、実際は当時鐙が開発されておらず、膝だけで馬を操縦するという状態なので、馬に乗れるというのは相当でないと乗れないわけで、一般的にはベンハーに出てくるような馬車だったわけね 銅戈、という武器は今でいう鎌であって、馬車に乗っている人間がひっかけて 倒すためにある そして当時は鉄が精製ができず、融点の低い銅が主体である 青龍偃月刀というのは、大体80センチぐらいの銅の棒である (青龍刀は別の武器である・青龍偃月刀がなぎなたのイメージなのはNHKの人形劇三国志に原因があるとおもうなー)蛇矛や方天画戟は明代のアイデア兵器で、(明代は 平和だったので、いろんなアイデア兵器が逆にできるが、たまに実戦があると実は使い物にならないという話で結局槍と普通の刀がいいのだという話になる) 例えば方天画戟というのは槍+矛+戈=最強といういかにも中学生的な発想だが重くて使いこなせないという欠点があるW 蛇矛というのは、通常は金属的な重りでぶん殴る武器に切る、刺すという事も出来ればな、という武器だが、矛自体が廃れていく(矛は力業であって、槍とかの武術が発達すると重くて大変な矛はすたれる) ところが加藤清正の使っていたのはこの戟なので、相当武芸と力があった人間だという事がわかるのである(片鎌槍というのは方天画戟である) 矛は鉄槍ができるようになりそっちのほうが軽量にできるのですたれるわけだが、 そもそも日本では戦国時代になると振り回し系が人の迷惑なので使用されなくなる 刀のサブうえぽん化がおこる(メインは槍)という事が起き、刀が1.8~2mが 1m60センチぐらいになる(※鎌倉期からの名刀で残ってるのは話が別) となるわけであるわけだが 木流牛馬というのは吉川さんは理解できなかったので孔明が発明したからくり兵器で トラックみたいに自走する「ような」ように書いていて、そもそもどういうものなのかの描写もあいまいだが、実は今でも普通に使用されているものである それは何かというと一輪車のことなのである なのでその辺はきにしなくていいんじゃないのかなあ 壮大さをたのしめばいいんじゃないのかな

なお正史上の赤壁の戦いは、曹操が大軍を率いて南下したものの 疫病がはやってしまい、やむなく撤退しただけの話 船やなんかが鹵獲されてもしょうがないので自分で燃やして撤退したわけね この損害が大きく、曹操の中国統一構想はとん挫するのである

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好いと思います。武将への親しみとリスペクトが感じられますし、なにより、その場にいる並みいる武将や配下の者、戦友に対して、「我は劉備様の名代で論功行賞の責任者だ。偉いんだ」と、上に立つ態度で臨むことで命令系統の順番をはっきりさせた作戦です。今後もわしのゆうことを聞けです。味方を統御しないと戦には勝てません。泣いて馬謖を切る、くらいでないと信用されません。

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まず、中国の名前は 姓 名 字で構成され、このうち名と字を同時に使うことはありませんし、名を普段使うこともありません。 ですから通常関羽はフルネームで呼ばれるとしても「関雲長」。名は「諱、忌み名」とも言い、皇帝からの公式文書などに使われる程度で、文書上でさえ使われません。 ましてや身近なものが呼びかけるのに使うなんてとても失礼なことです。 作者が日本人なので日本的な「仮名」の使い方と間違えたのでしょう。 羽将軍などと呼びかけたらその場で首をはねられてもおかしくないほどの失礼です。 あだ名が髯ですから、親しみを込めるなら「髯将軍」などでしょう。羽では親しみどころか見下しもいいところ。

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質問者

2020/8/9 12:28

ご回答ありがとうございました。 初めて読んだのが、20年ぐらい前だったのですが、その時、劉備ですら読んでいない呼び方だったので、かなりの違和感と、落ち込んで帰国した関羽が怒るのを感じました。 たしか名前で呼ぶのは親か主君ぐらいでしたね。