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大阪夏の陣で豊臣方が勝利したという可能性はあったと思います、家康、秀忠両名を打ち取った場合です。

大阪夏の陣で豊臣方が勝利したという可能性はあったと思います、家康、秀忠両名を打ち取った場合です。 有名な真田信繁(幸村)は家康本陣に突撃してかなり追い込んでいます、 仮に秀頼が後詰部隊(約1万5千)の内七手組(約4千)を率い、大野治長に残りの内4千を率いさせ,明石全登に3百率いさせると合計8千3百 真田隊(3千5百)と共に1万2千で家康本陣を襲えば家康は打ち取れたと思います。次に史実では大野治房隊(4千8百)が秀忠本陣の兵が家康救援のために出陣して手薄になったすきに秀忠本陣に襲い掛かり、秀忠自らが槍を振りかざし、側近の柳生宗矩も刀を持って防戦したと記述していますので、大野治房隊に長曾我部盛隊(前日5千で敗れたとはいえ、3千程度は残っていたと思います。)約8千で秀忠本陣を急襲すれば秀忠も打ち取れたと思います。 こうなれば徳川軍本隊は一旦駿府に引き上げ、後継者を選び、大勢立て直しをせざるを得なくなると思います。このスキに京及び近江、播磨、大和も占領し、国境を固めるくらいは可能と思います。 史実で徳川軍が実戦でもろかったのは、既に代替わりして兵に実戦経験がなかったのに比して大坂方には実戦経験豊富な戦国浪人が多かったためと言われています。 秀頼が勢力を固めて徳川の後継者と交渉し、今日の関西、中国、四国、九州を豊臣の縄張りと認めさせる事は十分可能だったと思います。どうでしょうかね。 それから先は西洋流の帆船建造して大阪港、兵庫港(神戸港)を基地として長崎、台湾を移動拠点にして広く東南アジア、インド、イスパニア、オランダと交易し日本の浪人を交易の仕事に従事させられたとおもいます。大体日本人は先進技術をさらに高める能力があり、安土桃山時代に日本を訪れた西洋人を驚愕さしています。「当時日本で生産された200匁火縄銃は48口径(12.1mm)、重量が27,4キロ、弾の重量750gであった。」と報告されています、西洋の技術ではこのクラスの銃(大筒)は青銅でしか作れず日本のように鉄では作れなかった。日本で作れたのは日本には鍛鉄技術があったからです。鍛鉄は銑鉄に比して丈夫なので銑鉄性の銃より多量の弾薬が使え射程も長距離にできたようです。はっきり言って日本の運命は家康と言う、徳川家の繁栄しか頭になかった愚物により大きく捻じ曲げられたと思います。家康はわざと川に橋を架けさせず、インフラを整えさせず、人の移動を禁じ、個人の理系能力の発揮を憎悪し、日本の国力の増加を妨げた禍々しい人物です。 だから司馬遼太郎は家康を憎憎しい人物として描いています。司馬遼太郎は戦前は戦車隊長を務めていたので、家康さえ存在しなければ、先の大戦でみじめな惨敗をして、国自体が亡国の淵に追い込まれる事はなかったと本能的に感ずていたと思います。

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回答(5件)

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その家康によって平和が長く続いたんだから良いじゃないの。 貴方の望み通りの歴史は侵略戦争の歴史でしかないし 朝鮮出兵で撤退するぐらいが限界だったんすよ。 占領地経営で逆に持ち出しになりかねない訳です。

古来人類の歴史は侵略戦争の歴史です。ちなみに敗れた方は歴史から消えています(よく言って奴隷にされています、でなけりゃ皆殺し)。甘く見ちゃいけません。

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大阪の陣では遅すぎます。豊臣に片桐且元が去ってしまって、内政要員が全然いません。はっきりって非常に歪な構成になっていて秀吉の貯め込んだ遺産を使って、いわゆる傭兵(浪人)を雇って成立している状態でした。海外の貿易と言いましたがそのための人材もいません。それどころか世界的な交易都市・堺を豊臣方が焼いて住人から非常に恨まれています。 それと家康は国内インフラをやっています。投稿者の考えは正直軍事方面に偏り過ぎて、内政面をおろそかにした味方ではないかと思います。 第一に江戸を起点とする主要道の整備(分かり易く言えば東海道五十三次当たりです)、これは大名の散財を目的としたものではありません。一里塚の設置で距離を分かり易くして、道端に松など日陰となる木を植えています。これは一般人や商人などの人と物の活性化を考えたものです。家康は江戸を発展させるために西国の有力な商人への優遇政策を取り、有利な条件で誘致を行っています。現在の貨幣に関しても豊臣政権下時代に、既に京都で正式に貨幣製造を行っていた所から有能な人間を誘致していたため貨幣価値が極めて高いものとなっていました。秀吉の大判(小判の大きいもの)は価値が高すぎて、大名の恩賞にとして配られたものですが、一般的な商人が日常的に使えるものではありません。小判、銀、など生活に密着した適切な貨幣を整えたのは家康です。 また関東地域における北条氏から引き継いだ物流システム(馬による戦時での情報伝達システムである駅伝性)を発展させたのが江戸の飛脚です。関東において書簡の遣り取りが容易であったのは、このシステムを一般でも使えるように整備したからです。 あと司馬遼太郎は小説家です。歴史家ではありません。その発言をあたかも歴史的事実のように言うのはどうでしょうか?もし戦争を憎んでいれば、二度に渡る無謀な秀吉の朝鮮出兵とその犠牲を彼は非難しなかったのでしょうか。家康憎し、秀吉可愛さの感情が先走っていて秀吉を正当化しただけなのではと言われても仕方ないと思います。

回答ありがとうございます! 私の思いは日本は安土桃山時代は軍事力も経済力共に世界最高レベルでした、秀吉の朝鮮進駐においても朝鮮軍は瞬く間に駆逐し、明軍に対しても平壌城の戦いの一戦のみ敗れましたが他は勝っています。 その気になれば国外に領地が広げられたと思います。明の衰えに乗じて朝鮮半島、台湾、中国沿岸部の植民地化と日本人の植民容易だったと思います。千載一遇の機会棒に振ったのは家康が居ったからです。石原慎太郎の言う日本のレゾンデートル(存在価値)も今以上にあったと思います。

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以前にもお答えしましたが、豊臣方が勝利した可能性は無かったと思います。なぜなら、勝利しようとしていないからです。 豊臣方は、最初から籠城戦を選択しているので、勝てる見込みはないのです。 真田隊の突撃も、堀が埋められてしまったので、仕方なく打って出ただけです。 勝つつもりなら、秀頼の名で、徳川家の否を書いた弾劾状で、正義を主張して味方を募り、家康を出陣させて、行軍途上を襲うしかないでしょう。 石田三成のやり方は、結果的に失敗しましたが、とても優れた戦略だったと思います。自分自身への豊臣家の大名たちの反感を読み誤ったことと、それでも島津義久の言を入れて、夜討ちを掛けていれば成功したでしょう。家康の首を取れなくても、天下は大いに乱れて勝機が増えたはずです。 同じことを三成ではなく、秀頼で行えば、味方する大名もあったはずです。 後世の人たちは徳川家の歴史しか知らないので、それが盤石ものだったと錯覚していますが、未だ、あの時期は流動的だったのです。秀頼に信長並みの胆力があれば、十分に徳川家に勝てたことでしょう。

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豊臣方の滅亡はもう決まっていたこと。 ただ次にくるのが徳川だとは限らない。 家康を討ち取れたとしても勢力は健在では、豊臣方は明智光秀と同じ目に遭うだけだ。