ID非公開

2020/9/19 11:34

44回答

八月十八日の政変とは、薩摩藩と会津藩が公武合体派とともに尊攘派の長州藩と急進派の三条実美を京都から追放したことですよね。

八月十八日の政変とは、薩摩藩と会津藩が公武合体派とともに尊攘派の長州藩と急進派の三条実美を京都から追放したことですよね。 そこから勝手に、薩摩藩は外国人が日本に入ってくるのに寛容的だったってことかな?と思って教科書を読んでいたら、薩摩藩は薩英戦争始めちゃってるし、どの藩がどういう考えだったのかよくわかんなくなってきたのでどなたか八月十八日の政変ら辺の歴史やどの藩がどういう考えだったかを説明していただけませんか?

日本史 | 高校28閲覧

ベストアンサー

0

薩摩が外国に対して寛容になったのは、 「生麦事件」の報復攻撃で、英国艦隊が 薩摩と戦争をした事がきっかけです。 この「薩英戦争」により 薩摩も英国も互いを「強い」と認め合う事となり、 それ以後、親密になって行きました。

ID非公開

質問者

2020/9/19 15:21

生麦事件から寛容になったのだとしたらそれまではあまり寛容的ではなかったということですか?寛容的ではないのに尊攘派の長州を追い出そうとしてたのですか?

ThanksImg質問者からのお礼コメント

わかりやすかったです、ありがとうございました!

お礼日時:9/20 14:10

その他の回答(3件)

0

薩摩藩はもともとは幕府寄りの公武合体派でしたが、後に島津久光が慶喜と対立してから倒幕に変わります。薩英戦争が起きたのは生麦事件に対するイギリスの報復です。

0

薩摩と長州の考え方の違いは、当初、 薩摩=公武合体 VS 長州=朝廷中心の新政権樹立、 といった構図でした。 しかし、島津久光の考えた文久の改革というプランは、 徳川慶喜の抵抗によって拒絶され、しかも久光は慶喜から、 外様大名の分際で、しかも藩主ですらないお前が幕政に口を挟むな、 といった事を言われてしまいます。 この失敗で、島津久光は幕府を見限って、 朝廷に急接近を図ろうと画策します。 そうなると、先に朝廷に深く食い込んでいる長州藩と、 長州びいきの公家たちが邪魔な存在になります。 そこで、薩摩は本音を隠して、君側の奸である長州を倒すべし、 と会津を誘って、長州の追い落としを図ったのです。 そして、長州が追い出されると、その隙を狙い、 薩摩は反長州派で、失脚していた岩倉具視の後ろ盾となって、 朝廷に接近を図ったのです。

0

薩摩藩の薩英戦争は生麦事件が発端 イギリスからの攻撃だし攘夷目的ではない ざっくり言えば、倒幕を考えてた藩は長州以外無い 薩摩も西郷や大久保の独断だから 藩としては倒幕ではない