幸福の科学とキリスト教の方にお伺い致します。

幸福の科学とキリスト教の方にお伺い致します。 「イエス・キリストは約二千年前に、人類の罪を代わりに背負って殺されることによって、人類の罪を軽くした」…というお話がありますが、 「イエス・キリストより偉大だ!」という幸福の科学の大川隆法さんが、 人類の罪を背負って死刑になれば、もっと世界は善くなるのではないでしょうか? どう思いますか?(・_・) 意見を聞かせてください。

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自然災害などを、神々の怒りとして受けとめていた古代人が、 神々の怒りをなだめるため又はその好意をえるに、 動物や人間の生け贄を神々に捧げたという事は、 様々な古代文明にありますが、 古代イスラエル人は、鳩や豚や羊や牛などを、 神の怒りをなだめるための生け贄として捧げていました。 磔刑による贖いの考え方も、この伝統を継承したものです。 生け贄の思想を理解するには、 生け贄思想の構造そのものを把握しなければならない と思われます。 生け贄思想とは、 圧倒的な強者の権力の下にある弱小集団が生き延びるために、 古代人が生み出した 生存のための智恵であると考えられます。 弱小集団は自分たちが全滅されるのを防ぐために、 自分たちの中から何らかの犠牲(若い女性や財産(家畜)を 積極的に支配者に捧げることによって、その返礼として 全体が生き残ることを容認してもらう 弱者集団生存のための論理、それが生け贄の思想なのです。 したがって、生け贄の思想は身代わりの思想です。 だから生け贄は その集団の他の人にとっては救いになるわけです。 また、強者にとっても、 その集団全体を滅ぼして得る一時的な大利益よりは、 何もしないで、定期的に得る小利益のほうが、 長期的には得策であると考え、生け贄の論理が、 強者と弱者の間の共通の利益として成立するのです。 この強者と弱者との関係を、 神と人間との関係にそのまま持ち込んだのが、 宗教的な生け贄の儀式です。 つまり、圧倒的な自然や運命の力に翻弄される古代人たちが、 自分たちの大切なものを犠牲に捧げることによって、 自分たちの存続や繁栄をゆるしてもらおう、と 考えて行う儀式が、宗教的な生け贄です。 古代イスラエル人の生け贄の伝統(旧約聖書)は、 そういうものです。 そして、イエスの磔刑による贖いの思想(新約聖書)も、 また、その伝統を受け継いだものです。 つまり、生け贄思想の背後には、 「絶対的権力者・支配者・王としての神」の存在が 前提されているのです。 そのような神観念がなければ、 生け贄の思想は論理的に成立しません。 生け贄の思想は、 圧倒的に強力な王朝の存在と、それに翻弄される弱小民族と、 絶対王をモデルとして発達した神観念の存在なくしては、 決して成立することのない思想であると思われます。 そして、古代イスラエル民族こそ、 人類史の中で、最も初期の絶対王朝を確立した、 2つの文明、(古代エジプト文明と メソポタミア文明(アッシリアと新バビロニア)に挟まれて、 強力な 古代エジプト王国やアッシリア王国や新バビロニア王国に、 翻弄され続けてきた民族だったのです。 それゆえに、絶対的権力者・支配者・王としての神を祭る 三大宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、の全てが ここで生まれたのです。 生け贄の思想が理解しにくいのは、その背後にある、 神観念の異質さにあると思われます。 古代イスラエルが近隣王国の支配に翻弄されたり、 南北王朝に分かれて争ったりしている頃、 日本列島は、一万年近くも続いた縄文時代において、 驚くべき長期の平和共存の時代を過ごしていました。 日本列島の古代人は絶対王朝による支配 というようなことを長い間知りませんでした。 おそらく、そのために、日本人は伝統的に 神を「絶対的権力者・支配者・王」として 理解することがなく、どんな神も仏も 平和共存させてしまいます。 したがって、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教のように、 絶対的強者(王なる神)に生け贄を捧げる行為を 宗教的に美化することが、日本の伝統に無かったのです。 このように日本人の神観念の伝統には、 生け贄を正当化する要素がないため、 日本人にとって、 キリストであるイエスの磔刑による贖いの思想は わかりにくいものになっていると思われます。 ところで、イエス自身を神とする考え方が、 イエス死後、数百年後に出て来ますが、 これは、もちろん、論理的に 生け贄思想と相容れないものです。 生け贄は あくまでも弱者が強者に捧げて助けを乞うもの であって、強者が自分自身を生け贄として 捧げることはありえません。 イエスを神自身とする信仰になったのは、 エルサレムから遠くはなれ、 ローマにその中心を置くようになって、 ルーツとしてのユダヤ教の伝統が 薄れてしまったことにあります。 しかし、 それでも、イエスを神だけとしてしまっては、 生け贄思想が成立しないことは、あまりにも明白なために、 イエスは同時に人間である、 という思想も生まれました。 イエスは神であるが、人間の罪の贖いのために、 人間として磔刑にかかった、というわけです。 こうして、イエスは神人融合体にされてしまいます。 そして、 「イエスは完全に神であり、完全に人間である」という、 本来のユダヤ教の聖書(旧約聖書)から完全に逸脱した、 誰も理解できない教義が キリスト教の正統となってしまいます。 そして、このことは、 日本人にとって、磔刑上の贖いを理解することが、 二重に困難になってしまっています。 日本人にとって、磔刑上の贖いが理解しにくいのは、 「神の怒りをなだめるための生け贄」という、 日本人にとっては極めて異質な 古代イスラエルの宗教的伝統に基づいたものだからです。 磔刑上の贖いの思想の背後には、 生け贄の血を見なければ人類を赦すことのできない 神の姿があります。 このことは、「キリストであるイエスは神である」という もう一つの教義によって、紛らわしくなってはいますが、 生け贄の論理が成立するためには、 どうしてもそのような、絶対的支配者・王としての神 の存在を前提にしなければなりません。 ところが日本では、神々や仏を相対化して 平和共存させて、唯一の絶対的支配者としての神 の思想が育つことはありませんでした。 そのような日本の数千年にわたる長い伝統が、 磔刑上の贖いの思想に 大きな違和感を抱かせるのだと思われます。

な、な、な、なるほどぉ…! 古代イスラエルの”生贄による贖い”という思想が根本にあったのですかぁ…! 確かにそう考えると論理的にも納得がいきますね! キリスト教のミッシング・ピースが埋まりましたね! ここまで”イエスによる贖罪”の妥当な解釈をし、 しかもここまで解りやすく説明してくれた方は初めてです…! これを殆どのキリスト教やユダヤクリスチャンの関係者達が説明も出来ず、知りもせず、調べもしないで、意味の判らない教義・思想をそのまま信仰しているのが不思議でなりません…。 しかもこの説明を受けて、さらに色々な事を考えさせられます…。 これは凄い事を聞きました…。 回答者さまに感謝を致します!☆☆☆

ThanksImg質問者からのお礼コメント

どうも有難う御座いました! 凄い方に出会いました! 人間の可能性の深さすら感じます。(__) 宗教家の方はこの「探究心」を見習いましょう!

お礼日時:9/27 23:23

その他の回答(2件)

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実際には人類の罪を背負えるはずはなく、死を持って信仰の象徴になられたことがその後の教団の発展に関わっていると思います。 幸福の科学は自己犠牲はあまり肯定せず、個人と社会が幸福になるための教えが中心の教えです。

>「死を持って信仰の象徴になられたことがその後の教団の発展に関わっていると思います。」 イエスが信仰の対象になった挙句、その後の戦争や虐殺の歴史を考えると、教団が発展しても世界が平和になったわけではないように見えるのですが…、 そういえば幸福の科学も発展する為には戦争や虐殺もいたしかたない…というお考えでしたよね?(それはhoshieiwaさんだけですか?) その辺はどうですか?

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「人類の罪を軽くした」? 「人類の罪を贖った」と違うのかな? 罪の為に、二度「償う」必要が有るなら、仰る通りですが…神の子が行った事に付け足す必要無いです。 付け足すだけの資格を有してるとも思いません。 彼が死んでも、自分の罪しか精算出来ないからです。

イエス・キリストは人類の罪を完全に贖ったのですか!?? では、イエスの死後のキリスト教徒が行った戦争や虐殺などは、 また新しく作られた罪でしょうか? それは誰の罪で、誰が贖うのでしょうか? また、罪人も死ぬだけで自分の罪が贖えるというならば、 罪を犯して死んだ者勝ちになりませんか??