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2020/10/16 23:45

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関ケ原の戦いの時、地元の村人は隠れたというテレビ番組を見ました。 合戦前は西軍の手伝いをしたと番組の説明欄にありました。

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質問者

2020/10/21 15:18

東軍の先発部隊の名前がわかる資料ってあるものでしょうか?

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三成が挙兵すると、美濃の最大勢力だった織田秀信が西軍参加を表明し、美濃の中小領主たちに西軍参加を促したので、否応なしに西軍に属した。 西濃の中小領主の稲葉貞通、稲葉方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らは、尾張で唯一西軍に属した犬山城の石川貞清を助けるために援軍に出された。 ところが彼らは東軍が迫ると、あっさり降伏開城を決め込み貞清を差し置いて交渉をまとめ東軍に寝返った。 石川貞清も開城に同意せざるをえなくなったが、東軍には寝返らずに大垣に向かい西軍に合流して、関ヶ原では宇喜多軍の一部として戦った。 一方、大垣城主の伊藤盛正も西軍に属した。 石田三成は盛正に「大垣城を西軍の最前線の本陣にしたい」という申し出に難色を示したが、追い出されるも同然で退去されられた。 そこで今村城に退去したところ、東軍に属した市橋長勝と戦闘となり破れて退去、関ヶ原の松尾山にあった城砦跡に逃れて修理していたところ、小早川軍が到来して追い出されるというありまさであった。 この他に大谷吉継隊も関ヶ原の不破関跡に陣取り、南宮山には毛利軍が陣取ったりしたので、関ヶ原界隈の農民たちはこれらの築陣などに狩り出された。 つまり関ヶ原の領主は東軍に寝返った竹中重門であったが、合戦前まで実効支配していたのは西軍だったので、農民たちは主に西軍側に労役をさせられたのである。 なにしろ東軍が関ヶ原に侵入したのは合戦当日の夜明け前であるので、農民を集めている暇はなかった。 ちなみに岐阜城陥落後、家康到着まで東軍が最前線の本陣とし帯陣した美濃赤坂付近の農民は東軍の労役をさせられた。 合戦が始まると農民たちは山に逃げて戦況を見守った。 戦後、東軍が勝利すると徳川家康は黒田隊の一員として合戦に参加していた竹中重門その日に呼んで、後片付けを命じ、迷惑料などとして米千石を与えた。 このため合戦が終わった翌日からは関ヶ原の住民たちは、今度は東軍側の後片付けの労役に狩り出されたのであった。 さて石川貞清と伊藤盛正はそれぞれ後に東軍に発見され、処刑寸前になったが、それぞれ口ぞえするものがあって命は助かった。 伊藤盛正は福島正則に仕えたのち、縁続きだった加賀前田家家臣となって、子孫は加賀藩士となった。 石川貞清とその子孫は武士を棄て商人になったという。