神聖ローマ帝国の皇帝が「選挙」からハプスブルグ家の「世襲」になったのは何故ですか? ■それは「金印勅書」によるものですか?

世界史 | 歴史52閲覧

ベストアンサー

0

ThanksImg質問者からのお礼コメント

みなさん回答ありがとうございました。

お礼日時:10/27 8:48

その他の回答(2件)

0

金印勅書のカール四世はルクセンブルク家で、どちらかと言うとフランス王家に近い人です。だから、ハプスブルクのためではないでしょう。実際に世襲同然になるまで数百年くらい?後になるのでは?

0

ルクセンブルク家のカール4世の出した金印勅書により、世襲が容易に行う事ができるようになったため。 金印勅書で、世襲が容易になっただけで、完全に世襲になったわけではありません。 ジギスムント→アルプレヒト2世→フリードリッヒ3世 この流れは、世襲ではありません。 ハプスブルク家のアルプレヒト2世は、ルクセンブルク家のジギスムントの娘婿の関係にあります。 アルプレヒト2世とフリードリッヒ3世は、同じハプスブルク家ですが、系統が異なります。 また、カール6世→カール7世→フランツ1世も世襲ではありません。 ここでの決着は、オーストリア継承戦争により決着します。 カール5世とフランソワ1世の皇帝選挙戦は、マクシミリアン1世時代にハプスブルク家は、選帝侯の資格を持っておらず、皇帝選挙に必用な過半数の投票権を持たなかったことによります。 さらにザクセン選帝候・ブランデンブルク選帝侯が、反ハブスブルクであった事により、有力な対抗馬が出れば、選挙戦となることが明白だったからです。 マクシミリアン1世が皇帝になる時も、ハプスブルク家は、選帝侯の地位は持っていませんでしたが、その時は、有力対抗馬であったブルゴーニュ公シャルルの戦死により、シャルルの娘とマクシミリアンとの結婚により、マクシミリアンが皇帝位につけました。 カール5世の時に、選挙戦となったのは、 1.ハプスブルク家が選帝侯の地位を持たなかった。 2.明確に反ハブスブルクを掲げる選帝侯が存在した 3.ハプスブルク家の対抗馬が、皇帝選挙戦を準備する時間があった ということです。

<後からこんな回答がありました> 金印勅書が定められた時、ベーメン王はカール4世のルクセンブルク家でした。さらにブランデンブルク伯もルクセンブルク家で継承できる見込みでしたので、これで七選帝侯のうち、2つを占めることが出来ます。 さらにマインツ・トリーア・ケルンの三大司教領は、フェーデ(私闘)、つまり近隣諸侯による武力で、その権益が奪われることがありました。そこで、フェーデ(私闘)禁止(金印勅書17条)を定めて、司教領の権益をちゃんと守ってくれる強い皇帝を求めていました。そこでルクセンブルク家が十分に強くなれば、七選帝侯のうち5つを占めて、世襲化が可能になるという見込みでした。実際は、ルクセンブルク家の家系が絶えたため、実現出来ませんでしたが。 また、ルクセンブルク家のライバルになり得るハプスブルク家を、選帝侯の地位から外したことも、世襲化を目指した措置のひとつです。 ■こういう事ですか?