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2020/11/17 23:19

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梵我一如とは簡単にいうとどいうことですか?

哲学、倫理23閲覧

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「あなた」と「神」が本来同一である、という意味です。 「あなた」とは何でしょうか? 一般的には、あなたの肉体の持ち主であるその「意識」の事をイメージするでしょう。しかし、「肉体の持ち主」とは言え、「あなた」は自分の肉体の働きや摂理を「支配」している訳ではありません。もし支配しているならば、あなたは自分の存在を維持する為に、食べたり寝たりする事を強いられることは無い筈です。それを支配しているのは「物理」であり「自然の摂理」です。一般的な意味において、あなたが「あなた」と呼んでいるものは、あなたの「行為」の主であるに過ぎません。 この、個々の肉体に宿る「行為の主」が「アートマン(我)」と呼ばれるものです。それに対して、あなたの肉体という「現象」を本当の意味で支配している「万象の主」即ち「自然の摂理」が「ブラフマン(梵)」と呼ばれるものです。これは「全宇宙、自然の摂理」であり、いわゆる所の「全知全能の神」とも同じ意味になります。「梵」とは「神」と同じです。 「梵」も「我」も、その本質は同様に「意識」です。 「我」は、自分が有限で非力であり「支配を受けている」と自己を認識する者であるのに対し、「梵」とはただ自己として在り、あらゆる感覚の対象が自身の意思と意識の平安を阻害すること無く自然に流転しているのを「傍観」する立場にある存在であると言えます。 纏めると、 「我」とは「行為の主」であり、いわゆるあなたが「あなた」と呼ぶ存在です。 逆に「梵」とは、全宇宙自然界の「万象の主」であり、「あなた」という物理的な存在のあらゆる活動や欲動や摂理を支配する存在です。 この二者が本来同一である、と説くのが「梵我一如」です。

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簡単に言うと、アートマンは個人の意識(自我)。 そしてブラフマンは宇宙。 その両方ともが同じ原理(物理現象)として存在しているという事から 梵(ブラフマン)と我(アートマン)は同一(一如) という思想です。 もっとかんたんにいうと、「私は宇宙」です。

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宇宙そのものが貴方であると言うことです。 瞑想を例にして、そのことを説明します。 瞑想とは、どの様な心の状態を言うのでしょうか。また、瞑想をすると、悟りが開けるとはどう言うことなのでしょうか。 目覚めている時、自由自在にはこの宇宙を体験することは出来ません。五感から入ってきた刺激に基づいて、外界を心の中に再現するからです。しかし、眠っている時、貴方は五感から解放され、自分の欲求・悩み・記憶等に導かれ内界を作り出します。これが夢です。 夢であっても、花びらの鮮明な色や、その1枚1枚の形を克明に見ることが出来ます。木々の葉っぱの1枚1枚が風に揺れている様を見ることが出来、その葉っぱの擦れ合う音を聴けます。風や太陽の光を感じます。夢の中に出て来た人の声を、はっきりと聴けます。起きている時と全く同じなので、起きているのかこれは夢なのか判断が付きません。 しかし、眠っている間は、記憶する機能も眠っているので、それだけ鮮明な夢であっても、憶えておくことは出来ません。漠然とした断片的な印象が残っているだけです。 瞑想とは、起きていて夢を見ることです。起きているので、その夢を自分の意思でコントロールすることが出来ます。夢は、自分の意思とは関係なく進んで行きます。しかし、瞑想では、望む人に出会い、会話を楽しみ、望むものに触ることが出来ます。その感じは、起きている時と何ら変わりありません。また、記憶する機能も働いているので、瞑想を止めてもその事を記憶しています。 瞑想により、貴方は本当はこの宇宙そのものであったことを悟ります。貴方の心がこの宇宙を作り出していることを理解します。海の彼方を探さなくても、輝くものは私の中にあったのです。 今まで私だと思っていた存在は、私の中の小さな一人に過ぎなかったのです。 ではどの様にしたら、起きていて夢を見ることが出来るのでしょうか。 それには、先ず座ることです。横に寝てしまっては、本当に寝てしまうからです。そして、ほんの少しだけ目を開けます。僅かで構いません。眠ってしまうのを防ぐだけで良いのです。 そして、臍の下10cm位の所を軽く意識します。思考している時、意識は上の方にあります。何かを考えて、意識を脳の位置に持ってくると、瞑想の状態には入れません。何も考えず、全てを捨て去ります。すると、意識は、次第に下に降りて来ます。 悩みも欲も何かをしなければならないと言う意識も、全て捨て去ります。自分自身も捨てて下さい。何も要りません。何もしません。自分もいりません。瞑想に入らなければならないと考えてもいけません。何かを感じようとしてもいけません。すると、次第に眠くなって来ます。それを、僅かに目を開いて、ただ本当に寝てしまわない様にするだけで良いのです。 そうしていると、後ろの頭頂部の辺りで、音が響いてきます。その音は、瞑想の都度異なります。私の場合は、ピアノの音であったり、お経の声であったりすることが多い様です。その音に耳を澄ませます。それは、次第に大きくはっきりとした音になってきます。 すると、今度は、額の中央の辺りで、ひっきりなしに動き回っているものを感じます。大きさは一円玉位です。ウニの様に、何本もの黒い枝が伸びたり縮んだり様々な方向へ向いたりと、不規則に激しく動いています。その動きを妨げてはいけません。思考すると、その枝を操作することとなり、動きを止めてしまいます。それは、動きを止められると消えてしまいます。 その動き回るものは、全てになります。言わば世界の種です。それに頼り切って下さい。思考することは「自力本願」です。思考を止めて、私の全てをその動き回るものに委ねます。この世界の種に頼り切ることを、「他力本願」と言います。 その動き回るものに私を預け切っていると、それは次第に大きくなって行きます。その黒い枝の1本1本は、家や木や池や石などあらゆる存在にせわしなく絶えず変化しながら、絶えず動き回る様になります。そして、どんどん大きくなって行きます。 すると突然、広々とした空間が開けます。今までせわしなく変化していた存在の中に、私が入り込んでしまっています。私は、一瞬にしてそれに吸い込まれました。せわしなく動き回っていた1本1本の黒い枝は、実際にその空間の中で家になり、車になり、木になり、池となっています。 そして、無秩序に動き回っていたその存在は、車として規則正しく動き、木の葉として秩序通りにそよぐ様になります。 私がドアを開けると、ドアは動きます。私の行動に合わせて因果関係通りに、それは動く様になります。今まで、後頭部で鳴り響いていた音は、風の音や人の声となっています。これが瞑想状態です。 この世界は現実の世界ではないと言う意識はまだあります。しかし、現実の世界と全く変わりません。起きていて、広い周りを見渡している時と全く同じ状態です。風が吹くと髪がゆれ涼しく感じます。車の音も聞こえます。振動も感じます。すがすがしい空気を、深呼吸することも出来ます。 会いたかった人に会うことも出来ます。その人の肌は、ぷよぷよとした感覚があり毛穴まで見えます。話もします。 瞑想状態に入ってしまうと、もう思考しても大丈夫です。瞑想から醒めることはありません。私は、自由自在にその世界で思考し、活動することが出来ます。この世界は私そのものです。この木も家も宝石も人も、私の欲しいものは既に私のものです。私は、こんなにすばらしい世界を所有しているのです。これが本当の「あの世」です。 瞑想から醒めるには、その世界で大きく息をし伸びをして、頭を振って眼を覚まそうとします。 そうすると、現実の世界に戻ることが出来ます。 しかし、目の覚めたこの世界も、私の心が作り出しているのです。 実は、瞑想状態の世界と同じものです。一度、瞑想の世界を経験すると、現実の世界全体も、私の心が作り出したのであり、私自身であることを理解します。 今まで私だと思っていた一人は、「小さな私」であったことが分かります。感じている世界全体が、大きな私です。 生きとし生けるものは貴方自身です。ですから、それらに博愛を注ぐことが出来るのです。 他人も貴方自身です。ですから、汝の隣人を愛することが出来るのです。 敵も貴方の一部です。ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。 これが、悟りの内容です。 この世の全ては貴方の物です。ですから、幸福なのです。 詳細は、下記のホームページを参照下さい。 http://catbirdtt.web.fc2.com/meisoutohananika.html