仏教の「悟り」とは、あきらめることですか?

補足

父親の「お前は悟っていない。」という説教は聞いていると「人生をあきらめろ。」と言っているようにしか聞こえません。 父は「いいか。人間には生れながらの運命というのがあってな。」とか言います。 私の努力をいちいち否定します。

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ベストアンサー

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捕捉に運命ということが書かれていましたので運命について書いておきます。  運命とは命の運びと言う意味です。命とは容姿や性格、好き嫌いや得手不得手などその人の個性のことです。人生は一瞬一瞬の判断と行動の積み重ねですが、その判断と行動を決めていのが個性です。この一瞬一瞬の判断と行動の積み重ねが運びであり、その一瞬一瞬の判断がその後の人生を決定づけていきます。  カッコウという鳥は自分で子育てしません。他の鳥の巣に卵を産み付けて子育てをさせます。他の鳥に育てられたカッコウの子供は育ての親の真似をせず、見たこともない生みの親と同じように托卵するようになります。これは遺伝子にどういう生き方をするかということが組み込まれているからです。   遺伝子には容姿や背格好だけでなく、性格や好き嫌い、運動や勉強などの得意なこと不得意なこと、

ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございました。

お礼日時:1/19 18:42

その他の回答(16件)

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場合によるよね… あなたがもう三十代半ばで、まだかないそうもない夢追ってるんならどうしようもないし、二十代前半でやりたいことやってんならそれもありだし。 極端なこと言うと、五十代で夢かたりながら人にたかって生きてたらそれはクズだし、結果の伴わない努力なんか無意味だし、まあ、あなた次第ですね…仏教の悟りなんかただの比喩なんでどうでも良いと思います。

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そりゃ、お父さんが変やで。 俗諦と真諦は分けにゃいかん。 努力は大事やで。自分で自分を褒める方が良い。 真理のレベルで言えば、諦める主体も、諦める客体も、諦めるという行為も、ない。 何にも残らない。

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悟りとは「因果の道理を諦観」することです。 諦観と書き、「諦に観る」という言葉が語源です。 それが時代が経つにつれてアキラメルとなったのです。 「おまえ、いつもそんなことでくよくよするな!いい加減に アキラメよ」となってしまったのです。 悟りとは因果の道理を達観することです。 我々凡夫は因果の道理を聞かされると納得はしても心の底 から納得することができません。 因果の道理とは 善因善果 悪因悪果 自因自果 我が身に降りかかる一切の善果も悪果もすべて自因自果と 教えられるのです。 しかしわれわれ人間は欲や怒り愚痴は死ぬまで無くならぬと 釈尊は仰せであるから、自力で悟りを開くことは困難である。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11209205481?__ysp=6YeI5bCK44CA5a6X5pWZ5a6244CA5ZOy5a2m6ICF だから釈尊は「私の師匠である阿弥陀如来は、私(弥陀)の 浄土へ往き、仏に生まれる身にこの世で必ずさせて見せる」 と誓われているのが阿弥陀如来だと教えられたのです。 参考資料 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12183593947?__ysp=6YeI5bCK44CA44OP44Kk44Op44O8 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13172046453?__ysp=5oKf44KK44CA5oiQ5LuP

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「諦」という字は、やるべきことを投げ出すことではなく、物事の道理を明らかに見ることを指します。悟りというのは、物事の道理を明らかにすることです。 四聖諦は、生きていく上で四苦八苦はつきものであり、思い通りにはいかないという現状把握が苦諦、思い通りにならないのは、煩惱が原因であると、しっかり原因を見定めるのが集諦、煩惱をコントロールするには、苦しみのない境地「涅槃」を目指すのが滅諦、涅槃に到るには三十七品菩提分法という正しい方法を実践することが不可欠としているのが道諦です。 仏教は運命論ではありません。きちんと現状を把握し、うまくいかない原因を探り、問題点を明らかにすることで、解決に到る道筋が見えてきます。うまくいくかどうかは、行動してみないとわからないので、まずは頑張ってみてください。