山田孝雄博士『平田篤胤』(文部省・秋田縣共同主催國民精神文化長期講習會講話:昭和十三年)
「高天原に神留坐す、神魯岐・神魯美の命以て、皇御祖、神伊邪那岐命、筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓ひ給ふ時に、生坐る祓戸の大神等、諸の枉事・罪穢を、祓賜へ清め賜へと申す事の由を、天津神・國津神、八百萬の神等共に、天之斑馬の耳振立て、聞食せと、恐み恐み白す。」
『(平田鐵胤翁の大壑君)御一代略記』に、「(文政六)十二月、吉田三位殿より、御同家附屬の神職等に、古道學の旨を、厚く教導すべき由を頼み玉へり」。この吉田家から附屬の神官に、古學を教へてくれといふ頼みを受けたことは、どういふことを意味して居るかと申しますと、この前(文化五年)に、白川(神祇伯)家から頼まれた(「七月、神祇伯白川殿より、諸國附屬の神職等へ、專ら古學教授せしむべき旨を頼み玉ふ」)。今又、吉田家から頼まれた。それには、日本の神道そのものゝ歴史を知つてゐないと分らぬ。今の神道學者などは、埀加神道だの何だの、といふことをいつて居りますが、それはその時分にあつたには相違ないが、日本全國の神社といふものは、學問的にいふ神道といふものは幾らあつても、その神社とは關係がない。日本全國の神社といふものは、吉田家の配下でなければ、白川家の配下に屬し、吉田家か白川家か、それ以外の神主は、一人も居らぬ。その吉田家の支配をうけてゐる神主の中で、埀加流をやつて居るものもあれば、或は唯一神道とか何だとか、色々なものをやつて居るといふ譯で、兎に角く日本中の神社は、白川家でなければ吉田家、吉田家でなければ白川家、これ以外の神道は、實際的にはないのです。學問としてはあつたけれども、實際としてはない。ところが‥‥文化五年に白川家が、先づ平田神道になつた。さうしてこの文政六年には吉田家が、亦た平田神道になつた。これで吉田・白川は、互ひに勢力爭ひはして居りますが、日本全國の神官といふものが、兎に角く平田先生によつて統一せられたも同然なんであります。だからこの文政六年といふ年に、平田神道といふものが、日本全國に、白川家も吉田家も風靡してしまつた年で、日本の神道の歴史からいへば、非常に重要な年なんです。神道の或る意味からいへば、王政復古といふことに當る年ある。これを神道家も歴史家も、一言もこのことを言はぬのです。この年に、平田神道によつて全國の神道統一の大方針が決まつた。これが實際に平田流になつてしまつたのが、慶應三年で、それは平田流に、白川の學校が出來、吉田家に屬するものが全部、白川家の管轄になつてしまつた。茲に於て明治維新より滿一年前に、神道の實際の王政復古が出來上がつたのでありまして、それが又た政治的王政復古の精神的基礎をなして居る。失禮ながら神道の歴史を説く人も、王政復古の歴史を論ずる人も、この點を言はない。日本の神道からいへば、佛教が入つてから、神道が衰微して約一千年、その間、茶々々になつた。これを平田先生が統一したのであります。その事實は、今の神主共は知らない。さうして『天津祝詞』を毎日やつて居つて、平田先生のことを知らぬのであります[『天津祝詞考』といふのは、『大祓』にいふところの「天津祝詞の太祝詞」といふものがありますが、これが文化十二年の四月に考へを立てゝ、後に弘化三年に出版になつて居ります。これは現在の各神社で、所謂「祓詞」と申して、極めて簡單な祝詞を申しますが、これは平田篤胤の校正した「天津祝詞」の文句なんであります。だが失禮だけれども、今の神主さん達は、それが誰がやつたものか、知らんで居る。昔からさうなつて居ると思つてゐる。それを先生は、古代のものを調べて、千年後に學問の結果、斯うあるべきだと決められたんです。それを今の神道家や神官が知らずにやつて居る。それから神道を研究した文學博士といふやうな人も、「そんなこともありますかね」といふやうな調子です。ですから今の人は、先生の恩惠を蒙つてゐながら、有り難がられてゐない。それを挽囘するのは、私共もやりますが、先生は、この外にも非道い誤解を受けて居る方であります。次には、篤胤先生の人物といふことを、少し申し上げませう。篤胤先生の著した『古道大意』『俗神道大意』、或は『西籍慨論』『出定笑語』とか『氣吹颫』といつた本を讀んでみますといふと、とても荒い言葉で罵倒して居る。反對論をもつて居るものは、坐つて居ることが出來ない程、やつつける。それは口が汚いといふか、何と評したらいゝか、じつとして居られぬ程、非道い事を、先生はいふのです。『古道大意』などはまだいゝのですが、『出定笑語』などや『俗神道大意』などを讀むと、恐ろしくなる位である。それで平田篤胤といふ人は、實に猛烈な、性質、極めて荒々しい猪か山犬かの如く考へられてゐる。果してさうか、と考へてみると、どうもさうではない。こゝはよく平田先生といふものを理解しなければならない。平素の言動をみると、非常に情の細かい、柔和な人であつたのです。それは、服部中庸が祝詞の中にもいつて居るやうに、容貌温良である、態度恭儉である。言葉には、へつらひ飾りがない、その點にも敬服して居る、といつてゐる。それから銕胤さんがいつて居るやうに、常には如何にも平和で、女人と異ならぬやうにみえる。兎に角く人と交際することは、柔らかな人であつた。門人の生田萬が書いたものにも、不斷は春風の吹くやうな、物柔らかいところがあるが、怒り出したら、どんな人間でも、顔を見てゐられない程、怒る。「其の聲を勵ますや、尚ほ迅雷の山を割くが如くなる云々」とあります。又た本居大平が、先生と會つた時のことを、大平が書いた文章について讀んでみると、これは『毀譽相半書』の中にありますが、「篤胤、もとよりいと物和かなる男にて、顔つきも柔和に、うちゑみつゝ物言へば、大平、もとより人と論談、口ぶてうほうなる男なれば、對面には、只だ先方の振合に應じたるなり」、斯う書いて居ります。尚ほ根本通明さんが、斯文會といふ會で講演した時に、篤胤先生のことをお話して居られるが、夫れは根本さんが十五六歳の時の話ですが、斯うあります。「目玉は、頗る鋭かつた。『慧眼、人を射る』とは、書物でみて知つてゐたが、實物は、大人においてこれをみることが出來た。しかし會つて話してみると、その言葉が非常に柔らかく、誰にでも優しかつた」。これが本當でありませう。さういふ人なんです。それから寅吉といふ子供が、天狗にさらはれたといふので、その時の事情を調べるのに、先生はその子供を養つてゐた。この子供は野性が甚だしいもので、先生が本を讀んでゐると、机から肩の上に乘つたり、色々惡戲をする。それでも先生、一向構はない。先生が大事にしてゐた庭を荒しても、少しも叱らない。我々には、一寸そのまねは出來ない。これは有名な話です。だから世間が考へて居るやうな人ではなかつたのです。それでは何故、著書の上では、坐つて聞いて居ることも出來ない程、激烈なことを云つたのであつたか。夫れは銕胤さんの話でも分ります。斯ういつて居ります。自分の師匠(父です)が講釋する時の説明をして居られる。「事物の説き方、その外、何によらず、わが大皇國の大道に妨害したるものは、悉く我が學問上の敵なれば、聊かも容赦なく、速かに討ちひしぐべく、烈しき言葉をものせるなり」。自分の仇でない、皇國の敵として、相手にしてゐるのです。又「道の爲め如何樣にしても、討つべき道理なり。先人の著述を論辯しては、先づ身體を嚴正にして威儀を正し、現に仇に對するが如くするにて、斯く僞儒者流の學風とは、甚だ相違あるところなり」。謂はゞ本についても、仇討の態度で講義するのですから、叶はぬ。それだから先生は、邪説と考へたものは、滅茶々々に反駁して、その息の根を止めなくては承知しないといふ方である。しかし一方においては、人情、極めて細やかな人であつた。のみならず宣長先生に對しては、どういふ態度を取つて居るか。本居宣長の恩に感じてゐることは、人一倍のものがある。さうして先生の學問の説に對しては、反對すべきは、堂々と反對して居る。反對しながら、先生を慕つて居るのです。こゝが偉い。有名なのは、『靈能眞柱』の終りにある文章である。篤胤先生を山師だの何なのといふ人があるが、先生の眞面目は、外の人には分らぬのであります。只だ一つ、茲に斯ういふことがある。それは、藤田東湖が平田先生を批評した手紙であります。これを讀むと、平田篤胤と藤田東湖が交はつてゐたといふことが分ります。「平田大角なる者は、奇男子に御座候ふ。野生も、近來、往復仕り候ふ處、その怪妄浮誕にはこまり申し候へども、氣慨には感服仕り候ふ。大角に比べ候へば、松のや(高田與清)抔は、書肆のばんたう位の者に御座候ふ。先年、閲み成され候ふ事も、御座候ふ哉。大角の著述、先公へ獻り候ふ分、御預け相成り申し候へども、試みに御覽成されはゞ、御用に仕り差上げ申す可く候ふ。『三大考』を元に致し、附合の説をまじへて辯するは、あきれ申し候へども、神道を天下に明かにせんと欲し、今以て日夜力學、著述の稿は、千卷に踰へ候ふ氣根、凡人には御座無く候ふ。去り乍ら奇僻の見は、最早や平田、破る可からず、憾む可し」と、兎に角く説には反對してゐるけれども、先生の學問には驚いてゐる。當時、日本第一の大學者といはれた、松のや高田與清なども、篤胤先生に比べると、本屋の番頭位のものだ。斯ういふ風な譯なんです。平田先生と本居先生とは、神樣に對する考へ方が違ふところがあるのです。私は、平田先生の考へ方が、遙かに優れて居ると思ひます。