日本においては、辻政信が代表例ですが、参謀が勝手に指揮命令を下したこともあって、指揮官と参謀が混同していますから、解りづらいのは当然なのでしょう。
本来参謀という役職はドイツで産み出され、参謀本部という組織もドイツが発祥の組織です。
一般の指揮官は部下の兵士を抱え、平時は兵士に訓練を繰り返させ、また昇進させるといったことに努めます。
一方、参謀はお付きの武官はいますが、それ以上の部下を抱えません。その分平時は、仮想敵国との戦争を想定し、どのように侵攻してくるかを想定し、その際どのように防衛すべきか、逆にどのように侵攻したら勝てるか。
そして、自国の兵器を有効に活用するために、どういった戦法を採るべきか、改良するべき点はないかということを研究することに専念します。
で、戦争の火蓋が切られると、参謀は作戦を司令官に提案する。司令官は損害なども考慮し、その作戦を採用するかを決断し、下命する。
作戦を実行した際の責任は司令部にしかありません。
例えば、参謀の立てた作戦は兵士の被害が大きすぎるから、逆に味方の損害は僅かだが、効果が低いといったことで他の作戦を採用するなんてこともあるわけです。
日本で、参謀の役割がドイツのものであったのは、日露戦争まででしょう。
有名なところで、日本海海戦における秋山真之。彼の提唱した丁字戦法は危険なものでした。それでも、バルチック艦隊を撃ち破るためには敢えてその危険を冒してでもと、東郷平八郎は秋山の作戦を採用しました。
東郷が戦艦三笠の甲板で、部下の制止を振り切ってまで戦局を見続けたのは、作戦が失敗して多くの部下が命を落としたとしても、責任を取るという決意の表れであったとしか思えません。
東郷でなければ、秋山の作戦を却下する以前に、参謀としていませんでした。
また、参謀が指揮権を持たないことの例は、これまた逆になりますが、203高地の戦いで、児玉源太郎が現地に赴くに先立って、総司令官大山巌に、現地に赴くことと、その際指揮・命令を発動することの許可を求めたことでも明らかです。
特に第二次世界大戦中のドイツでは、たかだか伍長でしかなかったヒットラーが戦術や戦略にまで口を出しました。
参謀本部の提案をヒットラーが受け入れていれば、歴史はもう少し変わっていたのではと考えます。