邪馬台国 畿内説vs. 九州説 その4

補足

質問が悪かったかなぁ。なぜズバリ「邪馬台国 卑弥呼」の名が用いられないか?ですよ。 11行以上のものは0点です。

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ルールに沿った回答のこの方をベストアンサーとさせて頂きました。 cel とかいう荒らしが発生しました。皆さんもご注意下さい。

お礼日時:1/22 13:28

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>神功皇后なら出て来ますが、明らかに「卑弥呼」ではありません。 >10行でまとめてみてください。 いやよ。 ◎縄文時代 縄文時代に森林で縄文人(ミトコンドリアN9bやM7a、Y染色体D1b)が縄文文化を営んでいました。長江下流から西日本にかけて照葉樹林が茂り、照葉樹林文化が栄え、いも栽培や焼畑や納豆や餅や絹や漆や歌垣やハイヌエレ神話などを営みました。長江下流では倭族主流(Y染色体O2)の下戸遺伝子が増え、長江文明が栄え、温帯ジャポニカ米の水田稲作や鵜飼や貫頭衣や高床住居や鳥居や蛇神信仰やしめ縄や天岩戸神話や海幸山幸神話などを営みました。東シナ海沿岸では倭族の海人(あま)族(Y染色体O1b)が雑穀栽培を営み、入墨をして漁労も営み、国生み神話を伝え、黄海沿岸に広がって、朝鮮半島との間で雑穀栽培や漁労や交易や海賊を営み、遼東半島で華北人やツングース人(ミトコンドリアD4、Y染色体C2)と混血して、遼寧青銅器文化やアルタイ系建国神話やタカミムスビ信仰や黄泉国神話を学び、朝鮮半島西南部で支石墓を営みました。 ◎弥生時代 海人族は朝鮮半島から更に済州島や対馬に渡来して、ミトコンドリアD4やY染色体C2やY染色体O1bや入墨や刻目突帯文土器や無紋土器や支石墓や太占や馬鈴をもたらましたが、馬は持ち込めませんでしたので、馬鈴は祭器の銅鐸になり、国生み神話やアルタイ系建国神話やタカミムスビ信仰や黄泉国神話ももたらしました。 倭族主流は黄河中流の漢民族の諸国に攻められて四散し、山岳地帯の少数民族やインドのタミル人や東南アジアのモン族やタイ族になり、済州島や対馬にも渡来して、倭人=渡来系弥生人になり、Y染色体O2や下戸遺伝子や温帯ジャポニカ米の水田稲作や鵜飼や鉄器や貫頭衣や高床住居や鳥居や蛇神信仰やしめ縄や天岩戸神話や海幸山幸神話などをもたらし、北九州の縄文ムラに水田稲作を伝えて、菜畑遺跡になりました。朝鮮半島南部にも水田稲作を伝えて、松菊里遺跡になりました。 これらの渡来系弥生人は九州や本州や四国に弥生文化を広げました。中でも海人族は北九州や山陰や北陸や近畿に銅鐸を広げましたが、そこには縄文系遺伝子も多く残りました。又倭人は北九州や瀬戸内に銅剣や銅矛を広げました。渡来系弥生人は人口が縄文人より増加し、縄文人と混血して日本人=大和民族になりました。 日本列島は低地が狭かったので、ムラムラが河川や低地や収穫を奪い合って戦い、環濠集落を営みました。勝ったムラはクニになり、海人族は対馬に天国(あまくに)を、北九州に委奴(いと)国や奴国を、山陰に出雲王国を、北陸に越(こし)王国を、奈良盆地に三輪王国を建て、倭人は山陽に吉備王国を建て、西日本に百余国が栄えました。対馬の天国は加羅・加耶も領有し、その天照(あまてる)王の子孫は出雲王国に国譲りを要求して攻撃し、出雲王国は銅鐸や銅剣を大量に隠して、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡になりました。国々は戦争を続け、最後まで徹底抗戦して負けたムラは奴婢にされ、被差別部落の起源の一つになりました。 委奴国は支石墓を営み、後漢に朝貢して、蛇紐の「漢委奴国王」印を授かりました。天国のニニギ王が北九州の日向(ひむか)峠などに上陸=天孫降臨し、委奴国や奴国などを服属して倭国になり、北九州や加羅・加耶などを支配し、甕棺墓群を営んで須玖岡本遺跡になり、三種の神器を祀って平原遺跡になりました。 倭国の大乱で高地性集落が増え、青谷上寺地ムラは全滅し、倭国から一部の末端勢力が追い出されて東征し、奈良盆地の飛鳥川の扇状地の銅鐸勢力を滅ぼし、ヤマト王国を建てて、神武王になりましたが、その後9代目までは大した事績も無く、欠史八代になりました。 帯方郡から倭国の都までの総里程は万二千余里で、水行十日陸行一月でした。後漢から三国時代に変わり、遼東半島では後漢から公孫氏が独立して、倭国を脅かしました。238年に魏が公孫氏を滅ぼすと、倭国の日巫女(ひみこ)王は魏に朝貢したので、次は呉が倭国を脅かし、倭国は有明海沿岸の吉野ケ里ムラを軍事基地にして備えました。 ヤマト王国の崇神王は巻向方面を征服して、神殿を建て、倭国以外のヤマト同盟の諸国が種々の様式の土器を持ち寄り、纏向遺跡になりました。彼は改めて始祖王とされました。 ◎古墳時代 高句麗からの渡来人が倭国やヤマトなどに古墳文化をもたらしました。高句麗の方形墳が山陰に伝わって、四隅突出型古墳になりました。高句麗の積石塚が馬韓に伝わり、更に讃岐平野に伝わって、野田院古墳になり、前方後円墳の源になりました。 ヤマトの崇神王朝は巻向石塚古墳や箸墓古墳や行燈山古墳や渋谷向山古墳などの前方後円墳を営みました。 百済や新羅からも渡来しました。渡来人は日本人と混血しました。 倭国は筑後平野に中心を移し、装飾古墳を営み、沖ノ島でも祭祀しました。倭国は高句麗と戦い、高句麗好太王碑に記されました。 ヤマト王国は高句麗戦に参戦せず無傷だったので、騎馬軍で大阪平野を征服し、古市古墳群や百舌鳥古墳群の巨大古墳を営みました。 魏の後継が南朝になったので、倭国の五王は南朝の宋に朝貢し続けました。倭国は朝鮮半島南部に前方後円墳を営みました。百済の蓋鹵王は新羅と対抗したので、倭国と同盟して、倭国王に銘文鉄剣を贈り、江田船山古墳に副葬されました。埼玉(さきたま)王国の磯城宮(埼玉県志木市)の加多支鹵大王は部下に銘文鉄剣を下賜して、稲荷山古墳に副葬されました。百済は倭国に七支刀も贈りました。ヤマトの継体王は倭国の磐井王を磐井戦争で敗り、ヤマトの物部将軍は倭国から七支刀を奪って、石上神宮に納めました。 ◎飛鳥時代 倭国は大宰府を都とし、仏教を取り入れ、倭国王阿毎字多利思北孤(あめのたりしひこ?)は遣隋使を送りました。 ヤマト王国は征服した諸国の元王達に古墳の祭祀を禁じ、皇室の祖先神をアマテラスとし、諸国の元王達の祖先神をアマテラスの子分の神々として序列化し、古墳の代わりに神社を建てさせました。更に外来の仏教を強制し、古墳の造営を禁じて、寺院の建築を推し進めました。 倭国は白村江戦争で新羅や唐に敗れて衰えましたが、ヤマト王国は参戦せず無傷でした。7世紀末にはヤマト王国が国名を日本とし、その王を天皇と改め、東国農民を防人として倭国に送って滅ぼし、西日本を統一しました。日本は諸国の歴史書を集め、それらを参考文献にして、「天皇紀」「国記」「帝紀」「旧辞」などを編みましたが、それらは失われ、更に「古事記」「日本書紀」を著し、参考文献を焚書し、倭国の歴史を抹殺しました。

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古代中国人が日本語を無理やり古代中国語に変換してるからだが。 マルクス・アウレリウス・アントニヌスを安敦にしちゃう国なんだから。

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記紀は持統天皇(天智天皇)系天皇と藤原氏の正当性をアピールするために創作された歴史書。持統「女帝」のメタファーとしてアマテラスやら斉明天皇やら推古天皇、神功皇后など手を変え品を変え、女帝の正当性を訴える。 その一方、天皇家そのものの正当性は、その女神から「授けられた」そして九州から大和に移動した(つまり九州が正統)という謎の設定を語る。 日本書紀の言語分析によると、渡来人による記述部分と、日本人による部分に分かれることがわかっています。漢字の用法があきらかに異なる=日本人の部分は原音が理解できていないので漢字の誤用があるそうです。 その渡来人の情報により不比等らは当然知っていたであろう魏志倭人伝の記述を、直接書くのではなく分解して上記のメタファーに利用してしまうところが不比等のしたたかなところ(おっと、行数オーバー)

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神功皇后の項にそれっぽいことを書いてますけど、なんか怪しいですよね。七支刀からして四世紀っぽいですし、ちょっと違うかなと思います。 三世紀の政変が崇神天皇や垂仁天皇に相当する人あたりで、崇神の前半生が神武天皇として書かれてて、卑弥呼は豊玉姫として書かれてると聞いたことがある。