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2021/1/21 1:13

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死への恐怖を克服すことはできるでしょうか? 死ぬことが楽しみになることはできるでしょうか?

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死について僕が最も好きな考えを持っている哲学者は「エピクロス」です。 彼は >自分の死は、自分の認知が働くなった状態とイコールなので、人間は自分の死を認識することができない と問いています。 死に至る過程は別ですが、死そのものを人間は認識することができません。 僕らが死に対して抱く「可愛そう」などのネガティブなイメージはあくまでも客観的な死であって、主観的な自身の死ではないんですよね。 僕たちは自分が死んだ事に気づくことすらできませんから。 で、質問の答えですが。これはもう哲学としては多くの解決策が出ているのですが、日本人は仏教が理解しやすいかと思います。 仏教は宗教として扱われる事が多いのですが、その元は哲学です。 仏教的な死の解釈は形而上学的な話であるとして釈迦は無言を決め込んだそうです。カントも言っている通り「形而上学と現実の問題」を一緒にして語ると訳わからなくなるからですね。 ですが、「死への恐怖」、あらゆる恐怖に関してどう考えるかという事で「あるがままに」というのが仏教の答えです。 正直これでは答えにならないのはわかっているのですが、僕自身、死恐怖症でした。 昨今心理療法の世界で仏教の慈悲やマインドフルネスなどが検証され、成果を上げています。 問題解決型の対処では、死を始め多くの解決できない問題が存在する事に気づいた人達が、「受容する」という選択肢をとって検証しはじめたんですね。 心理療法の受容の精神を鍛える手法は様々なアプローチがありますが、基本的に仏教の哲学を学ぶのが早いです。 後は、ヘレニズム時代のストア哲学なども仏教的でおすすめです。 または、認知行動療法を始めとする心理療法で死の恐怖は克服…とまでは言わずとも和らげる事できるでしょう。 カントやソクラテス、セネカなど達観した哲学者のエピソードでは死を受容している様子、セリフが遺されています。もちろん史実か怪しいものもありますが。 楽しみ…というのは難しい話ですが 人生は長さでも何をしたかも関係なく、ただ自分が良かったと思えれば良しなのです。 受容のスキルを鍛えるのはこれに繋がります。 最後に「これでよし」と死ねるよう、死も最後のイベントだと思えるよう、受け入れる事を学んでみてはいかがでしょうか。 教材としてはビル・ゲイツ氏も推薦している アンディプディコム氏の「頭を「からっぽ」にするレッスン」が仏教用語を使わず仏教哲学の話+マインドフルネスの手引について解説されていて、平易で読みやすくておすすめですよ。

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死は怖くありません。そのことを説明します。 死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。 その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。 質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。 死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。 詳細は、下記のホームページを参照下さい。 http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html

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できるひともいて、できないひともいて、どっちもいいんだ 「死ぬの、初めてよ!」って明るくいったひともいた 死にたくはないけど、死んでいくんだなって納得したひともいた 死を待ちわびてたけど恋したひともいた えっ、こんなことでとびっくりしたまま亡くなったひともいた

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