論理というのは言葉と同じです。英語で論理を意味するlogosは古典ギリシア語の λόγος (ロゴス)から出ている。論理は言葉で記述するので、言葉が違えば理解し合うことはできない。
論理的な結論は絶対に正しいと思われがちですが、これは誤解です。数理論理学でも前提となる公理(前提となる仮定)が違えば結論は異なる。例えば日本の学校で習うユークリッド幾何学では2本を通る直線は1本しかないとされているが、これを否定した幾何学も現に存在し、実際、真空中では直進するという光線が重力でねじ曲がる現象が観測されており、2点を通る直線など無限にあり得る。
つまり絶対に正しい論理などというものはあり得ず、我々が思っている論理というのは、我々が生きている環境に適応するために存在する脳の思考のくせに過ぎない。例えば我々の常識では、ある事件について、Aが容疑者である場合、Aは犯人であるか犯人でないかのどちらかである。しかし物理の世界では、Aが犯人であるかどうかは、確率的な問題に過ぎないという場合が日常的にある。つまりAは犯人であることもあり、犯人でないことも同時にあり得るということである。このことが我々の常識では理解できないのは、日常の世界ではそういう現象を観察することができないからである。しかし極微に世界や宇宙のような大きな広がりのある世界では、そういう考え方をしないと理解できない世界がある。
つまり、論理というのは実は我々が「ものを考えるときの習慣」のようなものに過ぎず、我々の日常以外の世界では全く通用しないということである。また、ある人の考え方は、別の人には間違えているように見えるという場合、その人の世界観が経験によって違っているというだけで、どちらが正しいかを客観的に判断することは不可能である。
だから、この世界に対する態度は、実は文明以前の人類のような考え方の方がよかったかも知れない。つまりこの世には八百万の神様がいらっしゃるということである。文明以後、神様を一つにしてしまった人類は、2つ以上の神様を認めることが出来ず、殺し合うしかなくなったのかも知れない。