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なぜ曹操の元に多数の賢人が集ったのですか? 人間は自分よりも優れた人物や自分の地位を脅かす存在を潰したくなるものです。

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回答(7件)

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曹操はまず都のある中原を制圧していたので、人口も多く文明も高く人材が多い所でした。 そのうえ彼自身が人材収集に余念がなく、能力主義で部下のやる気を喚起したのも大きいです。 あまりに能力の高い部下がいるとその存在を恐れる君主も多いですが、彼の度量が大きくそれがなかった。また彼自身の能力が極めて高いため部下も心服したのもあるかもしれません。 君主としてのカリスマ性、政治力も軍事指揮力も詩人としての文化人としてもどれをとっても一流でしたから。

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まあ、こういうのって、多分に結果論ですからね・・・。 その点では、te9さんのご回答を支持します。 曹操が群雄割拠した当初であえて曹操を支持した人はまだまだ少なく、荀彧、衛茲、棗祗、陳宮といったあたり。衛茲や棗祗は早死にしちゃってますし、陳宮は後に曹操と袂を分かってます。 まあ、荀彧だけが特例的に先見の明があった、というべきでしょう。 また、曹操に付いて行ったからこそ、後世、有名になった、ということもあるでしょう。 たとえば、張遼・張郃・徐晃ですが、曹操に仕える前にはほとんど手柄らしい話がありません。曹操に仕えて急に目覚めた、なんてことはないでしょう。能力はあったが曹操以前の上司が使いこなせなかったり、上司が無能だったので、部下も結果が残せなかったり、そういうことでしょうから。 クーデターってのは、起こす側よりも起こされる側に問題があるものです。 起こされる側がしっかりしていたら、一部の野心家や反動的な連中が策動しても、たいていは失敗します。 曹操だって何度か、クーデター計画をつぶしてます。 ようは、政権側と反政側と、どっちを支持する人が多いかで、結果も決まってきます。 曹操が部下に見放されるような大失態をしない限りは、その点は問題ないでしょう。 万が一、よほどの幸運に恵まれてクーデターが成功しても、その後が続かないですしね、支持を得られないと。呂布・王允がその好例ですし、日本だと明智光秀とかですね。

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人材という意味では曹操のライバル劉備や袁紹にも優れた人材は集まりました。また、中原の優れた人物は曹操袁紹どちらに着くか論じていたくらいです。 ですが曹操の優れた所は曹操自身が優れているにも関わらず、相手の意見を尊重しました。そして身分にかかわらず名士を優遇しました。 だからこそ袁紹よりも勢力が小さくても曹操に人材が集まりました。 曹仁夏侯惇夏侯淵に関してはそもそも親戚で旗揚げ時からの盟友なので新参を脅威とは思わなかったのでは?

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>>なぜ曹操の元に多数の賢人が集ったのですか? それは卵が先か鶏が先かという問題で因果関係の説明が難しいところです。 国が大きくなったのは多数の賢人のおかげで言えるし 国が大きいから多数の賢人が集まったとも言えます。 まあ曹操本人の資質で言うなら有能な奴を用いる・引き付ける資質は大きかったと言えるでしょう。 しかし集まるだけなら董卓政権には天下の名士がいっぱい集まってました。 でも集まっていたのは董卓本人の資質ゆえではありません。権力ゆえです。 人脈・名声で知識人を引き付ける先行資産という意味では袁紹がダントツだったと言えるでしょう。だから因果関係の証明というのは難しいのです。 曹操が兗州を得たのは実力で兗州の有力者や知識人の支持を得たからですが 後に、そいつらの支持を失って兗州のほぼ全域で裏切られています。(三国志武帝紀) 逆に劉備は徐州周辺の名士や民、有力者(鄭玄、孔融、陳登等)、の支持を受けリーダーとなってます。(三国志先主伝) この時は曹操に従ってる奴らの方が異常(少数派)だったのです。 結局のところ政治的嫌われぶりを武力や献帝擁立という政治的奇策で挽回したのです。 人材を引き付ける理由を以下のようにざっくり分類してみました。 ※ざっくりですのでテキトーです。 「コネ・人脈・評判・教養(先行資産1)」 「(与えられた)権力・官位(先行資産2)」 「本人の資質・魅力・政治姿勢など」 「統率力・政争力」 「最終的に築いた権力・官位・名声→(自滅・敗北後)」 曹操 5:2:8:9:10 劉備 3:2:7:6:5(→4) 孫堅 2:2:3:5:3(→1) 孫策 4:1:6:7:3 孫権 3:3:7:6:7 董卓 3:8:1:6:5(→0) 袁紹 9:2:5:7:7(→6) 袁術 7:3:2:5:4(→0) 劉表 6:2:6:4:3 呂布 1:3:2:5:3(→0) 劉璋 3:3:2:1:3(→0) 陶謙 3:4:5:4:2 公孫瓚 2:3:1:5:3(→0) >>曹操自身もあんなに多数の賢人が多くいると自分の立場を危惧することはなかったのですか? 呉蜀との競争、漢への政治工作等重要課題が続いてましたので自分の立場を危惧することはなかったと思います。

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「曹操が人材コレクター」などというよくある世迷い言は置いておいて。 一番の原因は中原の名士層を味方に付けたことですね。後漢末というのは各地に地縁・血縁で紐帯を持った「豪族」が根を張っており、その豪族が既得権益をまとめ上げることで地域の絶対的権力者層である「名士」へと変貌し始めている、その最初期にあたります。名士層そのものが完全に成立するのは魏末から西晋期まで待たねばなりませんが、後漢末にはすでにいくつかの派閥ができていて、董卓の乱以後でもっとも早くそれを取り込んだのが曹操でした。 上記の説明を分かりやすく簡単に言い直せば、「荀彧が配下に付いたから」です。荀彧は当時の名士層の最大派閥であった潁川名士の中心的家系の出身であり、その荀彧が当時の最大勢力であった袁紹を見限って曹操に付いた、その事が決定的であったと言えるでしょう。荀彧は自身でも潁川派を中心に多くの士大夫を曹操に推挙し、曹操もそれを基本的に受け入れたので曹操幕下には多くの士大夫、知識人層が集うことになりました。 また、当時は人物評が広く流行っていた時期であり、世に出るにはまず先人の人物評を得てからでないと歯牙にもかけてもらえないほどでした。先の荀彧も若くして「王佐の才」との評を得て名声を獲得していますし、曹操は人物評の当時の第一人者であった許劭の元へ押しかけて、半ば無理やり自らの人物評を求めています。これが有名な「治世の能臣、乱世の姦雄」というやつで、許劭からこの評を受けたことで曹操自身が士大夫から尊崇を集める存在になったと言っても過言ではありません。 一方で、劉備も孫親子もそんな評は誰も得てないんですよね。孫策だけは揚州名士の許貢から「霸王の気風あり」と評されていますが、これは人物評ではなく「霸王(=項羽)みたいに油断ならない」と朝廷に警告されただけです。 前述のとおり、当時は人物評ありきで人を見ますから、人物評を得ている曹操と得ていない劉備らとでは、どちらを主君として選ぶかは考えるまでもない事だった、と言っても過言ではないわけです。事実、劉備が自己の勢力を確立させたのは「伏龍」の人物評を持つ諸葛亮を得てからですし、孫氏が勢力を確立したのは孫策が徐州名士である張昭と張紘を得てからでした。 劉備が諸葛亮を得たのは208年、孫策が張昭らを招いたのが194年頃と考えられますが、曹操が荀彧を得たのはそれより早い191年のこと。これがどれだけ早いかって、当時まだ董卓が滅んでないんです(董卓が死ぬのは192年)。曹操はキャリアのスタートや地位の高さだけでなく、こういう所も他の群雄に先んじていたわけです。そして196年にいち早く献帝を保護して許に安住させたわけですから、その意味でも曹操の元に人材が集うことになります。献帝に仕えようとすれば自動的に曹操の元へと参じるしかないわけです。 ということで、別に曹操が人材を集めたわけではありません。「人材が集まるようにした」わけです。曹操がやったのはそのシステムが完成したあと、有名な唯才令を出してその流れを駄目押ししたというだけの話でしかありません。 >楽進や曹仁や夏侯惇や夏侯淵からすれば張遼や張郃や徐晃は自分の地位を脅かす存在 これは有り得ないですね。質問者さんの挙げた前者4名はいずれも曹操軍中生え抜きの古参で楽進以外は血縁かそれに近い譜代の家臣です。これに対して後者3名はいずれも敵方から降伏した者たちであって、軍中での立ち位置として明確な差異があります。確かに後者3名は降伏者たちの中でも出世頭と言っていい抜きん出た者たちですが、それでも軍中の序列を覆すまでには至らないでしょう。 曹操の立場に至っては献帝を擁している時点で揺るぎないものです。上記で長々と書いたとおり人材が集うシステムもそれを活用するシステムも組み上がっているため、曹操の地位が脅かされることはありません。 なお後年に司馬氏が曹氏を追い落とした事に関してはまた別の話ですね。前後400年続いた漢の劉氏でさえ追い落とされたわけですから、曹氏のみが安泰などというはずがないわけで。そして司馬氏も身内の内紛で弱体化(西晋→東晋)したあげくに臣下(劉裕)に取って替わられたわけで、要するにそれは「盛者必衰の理」でしかありません。

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