ここから本文です

小栗上野介忠順に対し新政府軍は何故、斬首という厳しい処分をしたのでしょう? .

si20030920さん

2009/3/1109:26:13

小栗上野介忠順に対し新政府軍は何故、斬首という厳しい処分をしたのでしょう?
.

以前に知恵袋で「幕府首脳で厳しく処分されたのは小栗上野介ぐらいで、どうして新政府軍は会津に対して厳しかったのか?」という質問に回答していて、その質問の中にあった“幕府首脳で厳しく処分されたのは小栗上野介”という部分がひっかかって調べてみたのですが、その理由がわかりません。

小栗は最後の将軍慶喜に信頼されて外国奉行や勘定奉行を要職を歴任して財政の建て直しや横須賀製鉄所の建設、日本初のフランス語学校を設立などに手腕を発揮しました。
小栗は鳥羽伏見の戦い後に主戦論者でしたが、主戦論者は小栗以外にも大勢いました。
小栗はその後罷免されて領地の上野の権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)に一族とともに静かに暮らしていたところへ新政府軍が来て捕縛しろくに取り調べもせずに斬首しました。(Wikipediaより)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86

徳川慶喜や幕府閣僚、会津藩主の松平容保らは死罪になりませんでした。
幕府に最後まで抵抗して函館まで行って戦った榎本武揚・大鳥圭介等も死罪にはならず投獄され、その後に許されて明治政府に出仕しています。

新選組の近藤勇が長州などの恨みを一身に受けて斬首されたのは分かるのですが、小栗上野介忠順に新政府によって斬首されるほどの罪や恨みがあったのでしょうか?

補足【訂正します】
幕府に最後まで抵抗して函館まで行って戦った榎本武揚・大鳥圭介等も死罪にはならず投獄され、その後に許されて明治政府に出仕しています。

新政府に最後まで抵抗し函館まで行って戦った榎本武揚・大鳥圭介等も死罪にはならず投獄され、その後に許されて明治政府に出仕しています

閲覧数:
76,478
回答数:
3
お礼:
100枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

2009/3/1323:48:51

何の詮議も行われることなく、小栗上野介忠順は慶応4年(1868年)閏4月5日に家臣とともに烏川の河原で斬首されています。薩長の憎しみを受けた新撰組局長の近藤勇ですら捕縛された後、取り調べや尋問を受けたあと斬首されているくらいですから、小栗の斬首は奇異といわざるを得ません。

まず、明治政府は小栗忠順の功績を抹殺したかったのではないでしょうか。大隈重信は後に「小栗は謀殺される運命にあった。何故なら明治政府の近代化は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語っています。近代日本の建設に大きな役割を果たした横須賀造船所を創設した小栗忠順の功績を認めたくはなかったのでしょう。また小栗忠順は官軍との徹底抗戦を主張していましたが、勝海舟は幕府を平和のうちに滅亡させて徳川家を存続させたいと奔走していました。、ゆえにどうしても彼が邪魔だったので排除したかったなどの説があります。
小栗忠順という存在を否定したい明治政府、徳川家存続のため彼が邪魔だった勝海舟、薩摩藩邸焼き討ち事件などで小栗を恨む勤皇の志士たち、彼らは皆、何らかのコネクションによって結びついていたなど、小栗の処刑を願う人間は決して少なくなかったということになります。

また小栗が領地に莫大な埋蔵金を隠していたとする説が処刑当時から根強くあります。莫大な財宝・軍資金を秘匿したのは官軍と一戦交えようとの企てがあるのではないかという疑惑が処刑の理由ですが、埋蔵金にかかわる証拠は見つかっていませんし、当時逼迫していた幕府の金蔵に持ち出せる大金などあろうはずもなく、小栗の「理由なき処刑」を正当化するために流された流言蜚語だともいわれています。

この質問は投票によってベストアンサーに選ばれました!

「小栗上野介」の検索結果

検索結果をもっと見る

ベストアンサー以外の回答

1〜2件/2件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

k1_121さん

編集あり2009/3/1123:56:06

彼はフランスの後押し(軍備調達など)で官軍を迎え撃つ壮大な軍略を立てられるほどの人物だった。もしこれを実行してたら官軍の勝利は危うかった。箱根山をポイントに陸からは、その箱根を要害城に、海上から江戸湾の幕府軍艦を官軍に攻撃を加える挟撃戦のプラン。それほどの頭脳明晰なる幕府高級閣僚・・維新政府でも登用すればの逸材・・一つ云えるのは、徳川財宝を隠匿したとの嫌疑(巷間伝わるところの、所謂徳川埋蔵金の鍵を握る人物だった)小栗は最後まで白状しなかった(それで処刑された)。事実そんな行動をとっていたアリバイ?!もあるが、こればっかりは今でも、判明されてません。当時幕府の金庫は既に空っぽ状態だった(フランスと借款契約を結ぶほどだった)、或いはそこそこの財産を先に述べたように、小栗が江戸城から持ち出していたとの説があるが・・謎です。まあ結局小栗は、A級戦犯(最高戦争指導者)として、生贄(スケープ・ゴード)されたかも知れないですね。(徳川慶喜がA級戦犯にならなかったのは大政奉還の功があったから)

kotori672007さん

2009/3/1117:05:23

具体的なことはハッキリしていません。なぜそこまで、小栗に厳しかったのか、よくわからないのです。
結局「推理」ということになりますが・・・。
うちの親父は小栗の生涯に対して詳しくもないのに、「小栗は切れ者過ぎた・・・」とよくいいます。でも、たぶん、これが答えのひとつでしょう。

1・勘定奉行であったため、新政府側が、幕府の金蔵をかなり期待していました。実際東征軍は軍費捻出に相当苦労していたのです。ところが江戸城に期待していた金がない。「さては、勘定奉行の小栗がどこかに隠したな・・・」と言うような憶測が生まれ、彼を捕らえて問いただしたのですが、口を割らない。その腹いせ、という部分もあったでしょう。
「小栗上野介の黄金」は、現在もなお信じられているくらいですからね・・・。

2・構想家は実務力が低く、実務家は構想力が低い・・・というのが普通ですが、小栗はその両方に長けた才人でした。
横須賀造船所など、ほとんど小栗一人の尽力でこぎつけたようなもので、将来を見据えた近代海軍力の増強、そのために必要な造船施設の建設、そのための資金集め・・・構想とその実現に向けた能力は比類がありません。
新政府側が、そんな彼を怖れた。
こちらの知らない間に、卓抜な能力で徳川家復興をたくらむかもしれない・・・。いや、何より、こんな凄い奴が明治政府に加わったら、牛耳られてしまう。俺らの立場がなくなる・・・。
そんな風に思ったとしても、不思議ではありません。薩長にとって、切れすぎる男はジャマだったのです。

ですから権田村には石碑が立っています。
「幕臣小栗上野介、罪なくして斬らる」
誰の眼にも、小栗に斬罪にされなきゃならないような罪があるとは思えなかったのです。

大島昌宏の歴史小説「罪なくして斬られる~小栗上野介~」(学陽文庫 NHK正月ドラマ化原作)を、是非お読みください。

あわせて知りたい

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

5文字以上入力してください

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。