漢代は王莽の新をはさんで前漢・後漢に分けられていますが、唐代は則天武后の周をはさんで前唐・後唐に分けられていないのはなぜでしょうか?

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆様ご回答ありがとうございました。 漢新と唐周の違いを明確かつ迅速に説明していただいたのでBAとさせていただきます。

お礼日時:5/5 13:34

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後漢の建国者たる劉秀(光武帝)は、前漢の劉氏と同族と言っても限りなく遠い親戚という感じで、実質的には他人に等しかった。 にもかかわらず新末の動乱に乗じて頭角を現し、その実力で新たな王朝を一から作り上げ、遂には天下すら統一してしまった。このように劉秀が作った後漢は、形としては漢王朝の復活復興という事になっているが、実態としては前漢とも新とも異なる全く別の王朝だった。 よって劉邦が作った漢は「前漢」、劉秀が作った漢は「後漢」と言って区別する。同じ国名を名乗っていて、表向きは同じ国だと主張していても、実態としては全く別の国なのだから、両者は区別せざるを得ないというわけ。 一方、唐の場合、簒奪した則天武后からして、唐の3代皇帝・高宗の皇后であるし、4代皇帝・中宗や5代皇帝・睿宗 の実母であり、唐の皇族の中枢に位置する存在だった。そこが外戚とはいえ劉氏とは無縁の存在だった王莽とは全く異なる。 その則天武后が老齢の為に退位すると、重臣達の支持を得た中宗が再び帝位に就き、ここに唐が復活したわけだが、これはまさに「復活」「復興」と呼ぶに相応しく、則天武后以前の唐がそのままの形で蘇ったと言える。漢王朝の復活や復興を大義名分にしてはいても、実際には新たな国を一から作り上げた劉秀とは決定的に異なる。 要するに則天武后以前の唐も以後の唐も文字通り全く同じ国。何なら則天武后が作った周すら実態としては唐と全く同じ国であってわけだから、特に区別する必要はなかった。だから「前唐」とか「後唐」なんて区別はされなかったのだと思われる。

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武周を挟んで中宗・睿宗の2名の皇帝が重祚しているからかと思われます。 前漢・後漢の場合はそういったことはなく、前漢の系譜と後漢の系譜も完全に独立しているため、王朝を分断して考えています。 同様の事態は南朝の斉・梁の間でも起こっています。斉の初代皇帝蕭道成と梁の初代皇帝蕭衍は同族であり、両者の間柄は9親等と少なくとも前漢と後漢に比べると近しい状態でありますが、間に別政権が挟まっているわけでもなく2つの王朝は分断して考えられています。 恐らくは、同族とは言え「それまで皇位継承権が認められなかった人物が皇位につく」という時点で王朝の分断と考えるのかと思われます。光武帝劉秀にしても武帝蕭衍にしてもせいぜい地方の刺史や県令のレベルで皇位継承などとてもとても、という段階から皇位についています。これが王朝交代と考えられるのでしょう。 唐は同一皇帝が重祚している関係上王朝交代とは考えていないのでしょう。他の事例だと(史実認定はされていませんが)夏王朝の相と少康でも間で后羿・寒浞により王位の簒奪が行われていますが、少康が相の子息であったため「本来王位を継承出来たものが王位に就いた」という考えで王朝交代としていない可能性が高いです。

政治システムの変更の観点で言うと、大きなシステム変更を伴っていなく群臣も殆どが引き続き仕えている斉・梁の間については王朝交代と見なされない可能性が高いです。 この差異から最終的には皇位継承の正当性が最重要ポイントになるものと考えられます。

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則天武后と武則天の違いくらい理解してほしいな。 則天武后は、高宗の死後、高宗との子供の中宗と睿宗を皇帝に即位させた。 則天武后が皇帝に即位後(つまり武則天の周の時代)睿宗を廃位したが、武則天は死の直前に自らの手で中宗を復位させて、自分は太后になった(唐の再興)。 この辺りの事情が、戦争で前漢を倒して、戦争で滅亡した王莽の新との違いだ。

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おそらく女性差別観からでしょう。「めんどりが時を告げると世の中は騒然とする」「女子と小人は養い難し」という伝統があるので、女性によって新しい王朝が作られたということはタブーなわけです。

それと後漢を興した劉秀は皇族一族とはいえ、直系ではありません。だから前漢・後漢と分けたのかもです。 一方唐の方は周王朝の後の中宗や玄宗らは皇帝の直系です。だから血統がそのまま続いたということでしょう。