人の運命というものは決まっているものでしょうか? あるいは変えられるもの でしょうか?

宗教 | 占い59閲覧

ベストアンサー

0

その他の回答(10件)

0

ID非公開

2021/5/9 19:35

「運命」は決まっていません。 「運命」は、是から自分で作って行くものですので、どのようにも変えられます。 「運命」とは、現世で作った原因(善因と悪因あり)が、来世に結果(善果と悪果あり)として現れる事です。 「宿命」とは、前世に作った原因(善因と悪因あり)が、現世に結果(善果と悪果あり)として現れる事です。 それ故、「運命」は、現世の行い次第で如何様にも変える事が出来ます。 現世でも同じで、自分の将来は、努力次第で変えられます。 宿命は、既に作った原因ですので、必ず結果は受けないと終わりません。 どこの国、どの両親に元に生まれ、誰に出会い、どの教えに出会うか、また、 食生活(狩猟民族・農耕民族)、肌色(白人、黒人、黄色人種)の違いも、宿命によるものです。 是が「因果応報」の天律です。 これを負うのは、真我である「霊」です。 人の行状は、法律やモラルで裁かれますが、霊の行状は、宿命にて裁かれます。 私達には「心」があります。その正体が「霊」です。 「霊」は遥か昔、祖神から生まれた「神の子」で、修行の為に、極楽天より降されました。 しかし、形が無いため磨く事が出来ません。 その為、磨く道具として、肉体(仮体)が与えられました。 この天界そして地球は、人が生活出来るよう作られた修行の為の仮の世界です。 「霊」は性理で解き、宗教の中にはありません。 この事を釈尊は「諸法無我」諸々の救いの為の教えの中には、我(霊)の教えは無いと言う意です。 私達の体には、霊、魂、魄の三つのたましいが宿っています。 「霊」は、極楽天で、創造主から生まれた「神の子=菩薩」で、永久不滅で、理性の心で、悟りを得れば、極楽往生、そうでない者は輪廻転生します。 この霊について説いたのが、本来の釈尊の教え「仏道」で、現在の仏教は大乗仏教の教えで、釈尊の直伝と違います。 「魂」は、私達の精神(感情の心)で、肝臓に宿り、肉体の成長、維持に勤め、肉体の誕生で生まれ、臨終で消滅します。 「魄」は、肉体の誕生で生まれ肺に宿り、臨終後も49日この世に留まります。49日があるのはこの為です。 この魄は、怒りの心で、怒ると、息が荒くなり、般若の面の如く、人を鬼化します。 私達は、この三つの心の葛藤の結果で行動します。 理性の心が勝てば、善行へ、魂魄が勝てば、悪行へと走ります。 現在は、魂魄の鬼心が強く、本来の修行を忘れ去っています。 この修行とは、五常(仁義礼智信)を実践し、善行を行い積徳する事です。 この心を動かすのが、六根(眼耳鼻舌身意)で、それらの作用が五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)です。 眼耳鼻舌身(肉体=色蘊)で得たものを、魂(心)が受けます(受蘊)、そこで、色々な想いと霊との葛藤があります(想蘊) その結果、行動します(行蘊)、そして、その結果を認識します(識蘊)。 その結果、手にできれば、次への「意欲」となり、手に出来なければ煩悩となります。 これが六根の「意=精神」です。 五蘊は八大苦の一つで「肉体と精神の作用による欲」の事です。如何にこの欲を小さくするか、これが人(霊)の修行でもあります。 私達の肉体には、「霊」の出入り口が五ヶ所あります。 出入りが出来る「正門=微妙の法門」が一つ、そして此処が閉まっている時の出口としての四ケ所(四門=眼耳鼻口)です。 「悟」の字の、「忄」は霊の事で、「吾」は、我、そして、五つ目の口の事です。 つまり、悟りとは、我が霊の在り場所を知る事です。 その場所より、肉体に宿り、生命を誕生させます。 しかし、その場所は直ぐに閉まります。 それは、その場所こそ、唯一、極楽天へ通じる正門だからです。 ここを再び開く事を「悟りを開く」と言います。 霊が宿りませんと死産となります。 そして、その霊が寿命を終えた肉体から抜け出すのを「死」と言います。 死を恐れるのは、霊は感覚を持ち、不滅で輪廻し、その行き先を知るからです。 肉体に感覚が有るのでありません。その証拠に死産の肉体には感覚はありません。 悟りを開けば「極楽往生」出来なけれは、奈落で霊の浄化に努めます。 「霊」が私達の生死を左右します。 この霊こそ、本当の自分、我(吾)です。 真の故郷、彼岸、極楽天へ帰る為に、人に宿り、正門を経て帰天します。 「人生」人が生まれ、生きる意義、目的は此処にあります。 しかし、人は肉体を自分(我)と誤解し別の生き方をしています。 その為、その自戒を説いたのが「般若心経」です。 「般若心経」では、肉体の意義、そして、極楽天、悟りについて説かれています。 「悟り」は、三つの秘法からからなります。 迦葉尊者に授けられた時は、教外別伝「不立文字、以心伝心、微妙の法門」と言われています。 般若心経の中では「三藐三菩提=三つの小さな悟り」「是大神呪、是大明呪、是無上呪」このように言われています。 「不立文字=無上呪」とは、字の無い、音声のみの短い真言です。これは、祖神に対する「SOS」の言葉です。 「以心伝心=大神呪」とは、祖神の子である証明の心印で、その印を結べば、祖神に通じ、宇宙を掌に包む事が出来ます。 「微妙の法門=大明呪」とは、霊の出入りする肉体の正門です。此処を再度開く事を「開悟」と言います。此処を開けば毫光を発します。これが自灯明です。 この伝授の方法が「直指人心」です。霊の在り場所を直接、指(合鍵)によって開きます。 悟りは「天機」で、そのものズバリを公言したり、書物に記すことが出来ません。 それ故、大仏開眼、神眼を開く、眼横鼻直、正法眼蔵と言われたり、大仏の額に「白毫」を印たり、ダルマに目を入れたりと、謎掛けをされるのです。 釈尊の教えは、悟りを開かれた前と後で違います。前の教えは、四大苦からの解脱、所謂、肉体の救いで、後は霊の救いです。 しかし、それを知るのは、迦葉尊者、アナン尊者等の正統な継承派で、現在も弥勒仏の下生により継承されています。 他は前の教えしか知りません。それ故、肉体を我と解釈します。 現在の仏教は、釈尊没後500年後に生まれた大乗仏教を主とした唯識論を基にしたものです。 肉体が我で、空・無で、すべて幻想であり、それを認識し、理解度により、悟りも段階があるとされています。 現在、目にする般若心経の解釈も、大乗仏教によるもので、「我は、不死を得たり」の「我」を肉体としたことが始まりです。 この我の真意は「霊」の事で、霊が、輪廻を解脱し、極楽天へ帰り、不老不死の永遠の生命を得られるからです。 以下は、「霊」を「我」そして「空」とする解釈です。 観自在菩薩」の真意は・・・観音菩薩ではありません。 観自在菩薩 ・・・自分の肉体に宿る霊を心眼で観なさい。 観・・・肉眼では見えないから、心眼で観る事。 自在・・自分の肉体に存在(宿)する。 菩薩・・神の子の霊。悟りを求め修行する者を菩薩と言います。 般若波羅蜜多心経・・・肉体(般若)は、彼岸、極楽天へ帰る(波羅蜜多)、霊(心)の経路(経)です。 (真我の霊は、肉体に宿り、微妙の法門(般若の門)より、極楽天へ帰天します)、題目でまず、肉体の意義を説いています。 色不異空 空不異色 ・ 肉体は空虚な(実質的な価値が無い)物で、空虚な物は肉体です。(色は、五蘊の色蘊で肉体(眼耳鼻口身)の事です) 色即是空 空即是色 ・ 肉体在っての霊、霊在っての肉体です。(空とは、霊の事です) (霊は、人の肉体に宿り、菩薩行の結果、悟りが開かれ帰天することが出来ます。肉体無くして、帰天出来ません。 また、霊が肉体に宿らないと、生命の誕生はありません。霊と肉体は即の関係です。例えれば、手の表と裏の関係です。 どちらが欠けても成り立ちません) 受想行識 亦復如是 ・精神もまた、霊と肉体との関係と同じです。(受想行識とは精神(意)で、五蘊の受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の事です) 現在は末世で、宇宙規模の大災難を前に、ある程度、修行が出来た者へも悟りの道は開けています。 すでに、その前兆は世界規模で起きています。 ここ2、3年の洪水、台風の激しさがそうです。 もっと、大きくなり、最後の災難を迎えます。 その為、弥勒仏が下生され、衆生済度されています。 現在も、災害地でボランティアの人達が活躍されています。 私は尊敬しています。 「天網恢恢疎にして漏らさず」神様は、漏らす事無く見ていると言う事です。 このような実践こそ、天に届きます。 弘法大師に、最澄が、大蔵経を貸して欲しいと頼んだ時、師は「実践が大事」と一言、言い放しました。 幾ら、内に勉学や修練を積んでも、それは善行にはならず、積徳は出来ません。 悟りを得るには、この積徳が大事で、前世に積徳が出来た者は、赤子でも悟りが開かれます。 「悟り」とは、このようなものです。 現代漢字の元は象形文字ですが、 これは、5000年前、黄帝の史官の倉吉によって、鳥の足跡をヒントに創られました。 黄帝は、鍼灸を考案し、人々に教えた方で、その功徳により、悟りを授けられています。 「ユンケル黄帝液」の黄帝とは、この方から取ったものです。 それ故、漢字には「悟り」を表す物や関連するものが数多くあります。 当時は、八卦を完成させた「伏羲」や神農本草経の「神農」も、その手柄により、悟りを得られています。 悟りそして道は求める程離れて行きます、善行による積徳が、「最良の運命」悟りへ引導されます。 良縁に出会われる事を祈念致します。 長文にて申し訳ありません。 (一部抜粋 悟りと般若心経 谷神一 著書)

0

人の運命はある程度生まれてくる国 時代によって決められています

0

人にとっては、『運命』なんてありません。 過去の自分の経験に習い、今に、より善く生かす事で、未来は豊かになります。 そういう意味では、誰しも過去と未来は、今に在るのです。