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2021/5/12 19:31

66回答

運命論という考え方に囚われてしまったかもしれません

心理学 | 哲学、倫理46閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">100

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唯物論では自由意志は存在せず未来は決定されています(但し未来は知り得ません) 唯物論は単純かつ堅固な論理で覆しようがなく、私は正しいと理解しています しかし我々は自由意思があるとしか認識できず、未来も知り得ません なので唯物論が正しくても 我々は自由意思をもって一瞬後の未来も変えうる生き方しかできません 決定されてようとされてまいと関係ないということです

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キリスト教は、運命は生れた時に神様がお決めになることになっています。したがって病気になって死ぬのも、事故で死ぬのも、殺されて死ぬのも、すべて神様がお決めになった運命ということになります。そして運命を変えることができるのも神様だけです。神様が奇跡を起こされた時だけ運命を変えることができるのです。九死に一生を得たとき、キリスト教徒は神様が奇跡を起こされたので助かったと考えますが日本人は「運が良かった」という言い方をします。その後に必ず「日ごろの行いがいいから」と付け加えます。キリスト教は自分で運命を変えることはできませんが、仏教は運命を変えることができると考えています。その理由は運命の元になる原因はすべて自分が作っているという考え方に基づいているからです。 運命とは命の運びと言う意味です。命とは容姿や性格、好き嫌いや得手不得手などその人の個性のことです。人生は一瞬一瞬の判断と行動の積み重ねですが、その判断と行動を決めていのが個性です。この一瞬一瞬の判断と行動の積み重ねが運びであり、その一瞬一瞬の判断がその後の人生を決定づけていきます。 カッコウという鳥は自分で子育てしません。他の鳥の巣に卵を産み付けて子育てをさせます。他の鳥に育てられたカッコウの子供は育ての親の真似をせず、見たこともない生みの親と同じように托卵するようになります。これは遺伝子にどういう生き方をするかということが組み込まれているからです。 遺伝子には容姿や背格好だけでなく、性格や好き嫌い、運動や勉強などの得意なこと不得意なこと、他には好きになる異性のタイプやどんな病気に罹りやすいか等、その人の個性の全てが遺伝子に組み込まれています。その個性に沿って人は判断し行動します。それは生まれた瞬間にその人がどういう生き方をするかがある程度は決まっていると言うことです。したがって運命は生れた時にある程度決まっていると言うことになります。 運命は変えられるかということですが。遺伝子の発現にはある程度幅があり自分の意志で変えられることもあります。遺伝子は母親と父親またその両親の遺伝子も受け継いでいます。現在働いている遺伝子でも環境の変化に合わせて発現する遺伝子が変わることもあるのですから、努力によって不得意なことでも上手に出来るようになったり、嫌いだった事が好きになったりするように、自分の意志で発現している遺伝子が変わることもあります。性格も多少は変えることができます。例えば自分の容姿に自信がなくて異性に対して消極的だった人が、美容整形して美しくなったことで異性に対して積極的な性格に変われば結婚相手が変わることもあるはずです。結婚相手が変われば運命も変わります。 人が生きていく上でいつも自分の思い通りに生きて行ける人はいません。他人によって生き方を変えられることもあります。そのとき悩みや苦しみが生じるわけですが、生き方を変えられたことが運命ではありません。運命は悩み苦しみに対峙した時、どう判断しどう行動したかがその人の運命なのです。運命を変えたければ迷った時にいつもとは真逆の判断と行動をとれば運命は変わるはずです。

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「運命論」というのは「生まれた時点で、ガチガチの人生(運命)が神様により決められてる説」だったっけ? だとしたらガセだよ。 ウィキペディアの「決定論」のページとか参考になるよ。 『人は「確率論的な因子」によって未来が決定されてしまう可能性が高くなっている』と書いてる。 すなわち、未来の決定には確率的な因子が関与するので、誰も先のこと分からない。 おそらく、神様にもわからない。 桜井和寿いわく「tomorrow never knows」だよ。 ※文系Fラン卒のワタシの解釈なので合ってるのか自信ないけど、そんな感じだと認識してます。