徳川将軍は関八州を治めていましたが、

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

みなさま、ありがとうございました。

お礼日時:6/14 19:47

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戦国時代には公家はほとんどの荘園を失いました。収入はほとんどありません。武士の居候や寄付金でかろうじて生活している状況です。 江戸時代になって幕府から小さな所領をもらいましたが摂関家でも数千石です。旗本程度。 これにたいして徳川は将軍の収入だけで400万石、親藩、譜代、旗本といった、何があっても将軍家と運命を共にする(はずの)武士も併せると千数百万石になります。 摂関家と徳川とで収入を比べるなんてとてもとても。

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「権力」の構造が違います。いわゆる「幕府」の権力の源泉は、武士達に土地(国)の支配権を「安堵」することにあります。 鎌倉幕府の開始年でもめているのも、昔は頼朝が将軍になった年にしてたけど、実際は将軍着任と「幕府開府」は無関係で、各地の守護の任命権を手にした時にするべきだろうという考え方になったからです。 徳川将軍も巨大な武力と領地を持っているから大名を支配できたのではなく、「公儀」として大名の領地を公認し、自治に任せたから従ったのです。みんな力で土地を自由に奪い合う戦国時代に戻りたくなかったのです。 これは大名に限ったことではなく、幕臣も同じで、旗本(譜代大名も含む)の給料は現金や米ではなく秩禄と言われる領地の自治権を与えることでした。徳川700万石といっても、その四割は幕臣の秩禄で消えます。 残りを幕府の予算(御家人への蔵米給含む)に当てますが、さらに経費を差し引くと将軍個人の持ち分はわずか20万石だそうです。 もちろん江戸時代当時の天皇や藤原氏諸公家の領地はその10分の1以下でしたが(荘園は大昔に守護大名が私産化して消滅しました)。

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江戸時代の領内統治はかなり強い権限で、年貢も漏れなく取ってたと思いますが、荘園はだいぶ違います。本来は私有地ですから自分で田畑を耕すかぎり収入は独占できますが、実際は他人任せ。その過程でどんどん中抜きされ、京都に届くのは盆暮れの付け届け程度のものです。それでも広大な荘園からは十分な収入はあったでしょう。京都では大威張りできたと思いますが、全国への支配権がそんなに強大だったとは思えません。何よりも支配者の一番大きな役割である治安維持や領民の保護も現地任せで、それを担った武士が台頭し鎌倉時代を迎えます。で、彼らが地頭になっていき、鎌倉後期には年貢の半分以上を持っていくようになり、最後は所有権まで失います。

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荘園は大部分は直接支配しているわけではなく、名目的な本家や領家という場合が多く、上納金を取っていただけですし、藤原氏でも祖ぞれのメンバーが個別に持っていただけですから、領地に関する権力でいえば徳川氏のほうが大きく上です。