邪馬台国九州説の私 侏儒国=種子島 裸国・黒歯国=奄美大島・徳之島 あなたは?

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こんにちは。 つまり、 ◯魏志倭人伝は一貫して東と南を取り違えている。 ◯こびと お歯黒 裸と言う意味ではなく、音を重視すべし。 と言う事でしょうか?

ThanksImg質問者からのお礼コメント

言語学は全くの手付かずなので勉強になります。

お礼日時:7/6 10:30

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侏儒国=沖縄 裸国・黒歯国=フィリピン・ボルネオ島 当時の古人骨の平均身長 琉球諸島150cm 九州160cm 裸・黒歯は中国人がイメージする南方風俗で、実際にそこまでは行ってないでしょう。 ○驚くべき?インドネシア語と日本語の共通性 https://gamp.ameblo.jp/prconsultant701938830/entry-12390096866.html

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「邪馬台国九州説」の人は「南米西海岸のエクアドル」と言わんとあかんのと違うかな!

こんにちは。 実際オモシロイ 興味深い理由があればエクアドルでも構わんのですけどね。 さて、関西人で畿内説のあなたに再度質問です! 侏儒国裸国黒歯国はどこだ!?  期待しとります笑

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状況証拠しか無いが、南九州説一択と考えます。根拠を略述します。 当時のシナ人の概念では、日本列島は朝鮮半島の南からさらに南方に伸びている島であると考えていたフシがある。倭人伝も「末廬国(松浦)、伊都国(怡土郡[いとの郡]あたりにあった国だろう)、奴国(儺県 なのあがた)、不弥国(宇美のことだろう。神功皇后が三韓征伐の帰り、ここで応神天皇を生んだと伝承されている)までの北部九州までは、方角もほぼ当たっており、それに応当する古代地名もあるが、次から方位や距離がおかしくなってくる。 しかし実際に大和に向かったなら、当時は必ず船旅であり、数日はかかっている筈なので、朝日の昇る方角を間違える筈はない。 北九州から急に、南に投馬(とうま)国、水行二十日、とあるが、投馬国が薩摩国(古代の発音はサトゥマ サは接頭辞の美称だからトゥマと呼ばれていた可能性はある)だとしても、水行二十日は長すぎる。残念だ。 3世紀当時、南九州(今の鹿児島、宮崎県南部)はクマソの国であり、朝廷には服していなかったから、遠回りして二十日かかったということはあっても、豊後水道ではなく、九州西端に沿って船で旅しても普通は数日で着くはずである。 考えられることは、邪馬台国まで往くには二十日もかかるから、ここで話をしましょうとかなんとか言われて、今の宮崎県南部まで連れて来られたのではないか。実際にはそこが邪馬台国の都であっても、ここはその支店だぐらいに思わされていたのかも。 官を弥弥(みみ)というと倭人では書くが、宮崎県南部には美々津(みみつ)町という港がある。古代に港、ミミの津があった場所であり。神武天皇がサノのみことと呼ばれていた時代、ここの津から船に乗って「東征」の旅に出られた。 倭人伝は副官を弥弥那利(みみなり)と言うと書くが、薩摩半島南端には水成(みずなり)川があり、古くはミナリ川と呼ばれていた可能性がある。耳鳴りがそそうな名である。 その投馬国の南に邪馬台国があると言うが、前述の通り、船で二十日もかかるのが邪馬台国であるから、実際には来ていないんのだろう。すべて自称邪馬台国の人間から聞いた話が、「女王の都する所、水行十日、陸行一月。官に伊支馬(いきま)有り、次を弥馬升(みましょう)、次を弥馬獲支(みまかくき)、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。七万余戸可り」の部分だろう。 とすると、水行二十日の内、10日は投馬までの船旅であったのだろうが、10日なら北九州から九州の西を回って宮崎県南部に来るのにさほど不自然な数字ではない。潮の流れや天候、まして船に慣れない人なら、休み休み来ることも考えられる。実際、北九州から大和に往くときも、船で瀬戸内を東に往くが、難波津辺りで船を降り、あとは陸路で奈良まで往ったのだろう。 女王国より以北は、戸数道里は略記できたが、直接に通らなかった旁らの国は遠絶であって詳細には記入できないという。つまり、今まで戸数や道里を書いたところは凡そ自分で確認したと言いたいのであろう。その割には景色や風物など、全く記載が無いのは残念だが。

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