イスラム教の「主の前にがみなが平等」というのはユダヤ教やキリスト教でもそうなっていた記憶があるのですが、違うのですか?

宗教 | 世界史103閲覧

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平等の事もある…くらいです。みんな裸で産まれてくるとか、その程度です。

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聖書の使徒10章34、35節にはこうあります。 「 そこでぺテロは話し始めた。「神が不公平でないことがよく分かりました。神を畏れて正しいことを行う人はどこの国の人でも神に受け入れられるのです。」」

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よく勘違いがあるのは、イエスは「人類は皆兄弟」という発想は持っていませんでした。イエスが「あなたがたは皆兄弟です」と言われた「あなたがた」とはキリスト教徒に対してであり、異教徒は含めていません。また、ペテロは「神はすべての者が悔い改めることを望まれる」と言われましたが、これはキリスト教徒ではあるが道を外し間違いを犯した者に悔い改めるようにと呼びかけていたのであり、異教徒は含めていません。勿論、ユダヤ教徒は排他的であり、選民思想を持っており、異教徒を受け入れてはいませんでした。イエスでさえも、イエスに癒しを求めた異教徒の女に対して「私はイスラエルの失われた羊以外には使わされませんでした」と言われました(ただし、女の熱意を見てイエスは癒しを与えられました)。

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もちろんそうです。 地位や財産や家柄などの差はあっても、 全ての人が神の御前では平等に裁かれ、 ただ信仰の秤に従って救われます。

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キリスト教は、 死後あるいは世の終わりと再臨の時にあっては 「主の前では皆が平等」です。 キリスト教(新約聖書)においては、 現実世界における権力者への従順を肯定しています。 [ローマ 13:1-7] 人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、 今ある権力は全て神によって立てられたものだからです。 従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、 背く者は自分の身に裁きを招くことになります。 実際、支配者が恐ろしいのは、人が善を行う時ではなく悪を行う時です。 権力を恐れずにいたいと願うなら、善を行いなさい。 そうすれば、権力から褒められるでしょう。 権力は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。 しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。 権力はいたずらに剣を帯びているわけではなく、神に仕える者として、 悪を行う者に怒りをもって報いるからです。 だから、怒りが恐ろしいからだけではなく、良心のためにも、 これに従うべきです。あなた方が税金を納めているのもそのためです。 権力は神に仕える者であり、この務めに専心しているのです。 全ての人々に対して自分の義務を果たしなさい。 税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め 恐れるべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。 [ペトロ第一 2:13-19] 全て人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい。 それが、統治者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し、 善を行う者を褒めるために、王が派遣した総督であろうと、服従しなさい。 善を行って、愚かな人々の無知な発言を封じることが、 神の御心だからです。自由人として行動しなさい。しかし、その自由を、 悪を行う口実とせず、神の僕として行動しなさい。全ての人を敬い、 きょうだいを愛し、神を畏れ、王を敬いなさい。召し使いたち、 心から畏れ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、 気難しい主人にも従いなさい。不当な苦しみを受けても、 神のことを思って苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。