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2021/10/13 16:23

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平清盛も源頼朝も北条も信長秀吉家康も、全権を掌握していながらも、自ら天皇にはならず、皇統を尊重した理由は何ですか?

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質問者2021/10/15 10:47

卑屈なほど強者に阿ることが、なぜ公正中立とみなされることになるのですか?

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その必要がなかったのでしょう。 朝廷の政務能力と権威を流用すれば、自分を正当化し、権威付けしながら国内運営ができます。 そのために自分が天皇になるより、天皇を頂く方が有効だと判断したのでしょう。 逆に皇統をつぶしてしまうと、それまでの天皇に忠誠を誓った勢力の反感をかい、またそれを大義名分にした対抗勢力の拡大の原因になります。 国内の統一者の面々はみんな現実主義ですから、表面上はともかく判断内容としては、「己が天皇に成り代わろう」よりも「いらない面倒ごとを起こすよりは、別に天皇に攻撃されているわけでもないから尊重しておこう」ということではないでしょうか。 「統治に都合がよかったから」というわけですかね。

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まず別に彼らは全権を掌握しているわけではありません。 その中でもっとも強い勢力を有していたと言える家康でも当時の幕府直轄領は200万石程度で他の親藩・譜代などをあわせても400万石程度でした。 これは確かに突出した勢力ですが「全権を掌握」という程では無いです。 そして家康は自分の代まで三河のいち国人領主でしかなかった徳川家が成り上がりである事を十分に承知していました。 もちろん家康は実力で天下を獲ったわけですが、その理屈なら「実力があれば徳川から天下を獲ってもいい」という話になります。 だから家康は「徳川が朝廷から征夷大将軍の地位を与えられたので、天下の大名に号令する」という大義名分を掲げたのです。 これは大名にとっても利のある話で、形式的にも大名の地位は天皇から与えられる(並の大名なら従五位下なので、将軍も「法を破る」「後継者がいない」などの正統な理由がなければ大名を取りつぶす事は出来ませんでした。 このように権力と権威を分離したからこそ江戸幕府は長期の安定政権となったのです。

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「天皇だけは、代々の血統によらねばならない」 ・・・と分かっているからでしょうね(^^)/ 仮に、天皇になろうとした瞬間、他の大名・御家人だけでなく、 「家臣や一門衆」すらも敵に回す事になるでしょうから(>_<)

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ええっとですね、、、戦国時代の戦国大名による一円支配が始まった後と、その前とでは意味が違ってくるんだよな。 平安時代中期から室町時代まで、重層的土地支配構造である職の体系が大きな意味を持ちます。 飛鳥時代に律令制による国家運営が始まったんだけど、これが100年足らずで形骸化し始めるんだ。 本来、公地公民制によって、すべての土地と人は天皇のものという建前が謳われたんだ。ところが実際には土地は公領と荘園に括られるんだ。 で、荘園はいわば在地の有力者が、現在の県庁にあたる国衙と相談し、新しい耕地を開墾したのです。彼らは人を集め資財を投入できる実力者で、開発領主と呼ばれます。 ところが、公地公民制のもと無制限に所有できなかったので、開発領主は国衙から税の軽減の約束を取り付けて、土地を開発していったのです。この開発領主の土地に関する権利と地位は子孫に受け継がれます。これを在地領主といいます。 ところが在地領主の権利は非常に危うかったのです。隣接する在地領主やあるいは約束をした当事者である国衙が、その権利を奪おうとさまざまな攻撃を仕掛けてきたのです。そこで在地領主は自身の権益を守るため、有力者の力を借りようとしたのです。それが京の貴族や寺社だったんだな。 在地領主は、荘園での税収の一部を貴族や寺社に献納したのです。しかし、頼られる貴族や寺社は国衙のトップの国司を黙らせるくらいの力が必要だったため、貴族や寺社は、さらに上級の権力者に自分の権利を献上し、荘園の保全を図ったのです。 この上級者とは、皇族、摂関家、大寺社だったんだな。この関係をまとめると、次のような関係になります。 「本家」上級者(皇族・摂関家・大寺社)→「領家」貴族や寺社→「下司」現地の管理者(在地領主) 平清盛や平家一門、のちの鎌倉幕府の御家人も、こういった職の体系によって、土地の権利が保全されていたため、天皇や朝廷の権威を否定するわけにはいかなかったんだ。逆にいえば、平家政権や鎌倉幕府も、強い権力を持っていたが、職の体系を否定できるほど強い力を持っていなかったんだ。 この職の体系が崩れてくるのは、戦国時代に入ったからなんだ。戦国大名は領国の一円支配を強化することで、職の体系は崩れ始めてきたんだな。一円支配ってのは一円知行ともいわれるんだけど、職の体系のような重層的土地支配構造と違い、ある者が一元的に土地を支配する社会構造に変わっていったんだ。 戦国大名は家臣、配下の国衆の所領の安堵と安全を保障する一方で、家臣と国衆らは大名へ臣従し、大名に軍役や物資の献納などを行ったんだな。つまり、在地領主の権益の保全は職の体系から大名との臣従関係を結ぶことで図ったんだな。 じゃあ、信長や秀吉、家康は天皇や朝廷は不要になったんじゃないか?ってなるだろう。まあ、一地方の大名ならそれで問題はなかったんだ。ところが、彼らは天下人だろう。 ここからが厄介な話になってくるんだ。というのは、戦国時代というと下克上が言われるけど、それでも旧来の有力な大名が残っていたんだな。信長は元を辿れば、先祖は越前の剱神社の神官で、斯波氏に被官後、尾張に移り守護代となった家柄なんだな。(もっと細かくいうと、その守護代の家臣筋だったんだけどね)秀吉は下級武士の出自。家康は清和源氏新田流を名乗っていたけど、どうも怪しい。 南部や佐竹、武田、上杉、小笠原、島津、大友なんて家柄は、遡れば平安時代まで遡れる家柄なんだよね。血筋からして、信長や家康、秀吉なんて見下される存在だったんだよな。で、守護代や国衆から戦国大名になった者からしても、自分たちとそんなに変わらない出自じゃねえかってなったんだよな。 つまり、天下人となるには、その家柄、血筋として不十分だと思われることも少なからずあったんだな。これは政権維持にとって不安定要素になりかねない話だったんだな。 となると、何がなんでも権威をつけなければならない。それに利用したのが天皇であり朝廷だったんだな。天皇と朝廷からの信任を得ているというのが、家柄が低い信長らにとって権威づけをするのに不可欠なことだったんだな。

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天皇という存在を成り立ちから考える必要があります。 弥生時代、倭国大乱が起こり、九州から東海までの広い範囲で戦乱が続きました。その戦乱を治めるために邪馬台国の卑弥呼が倭国連合の女王として共立されました。卑弥呼は鬼道を操ったとされますが、つまり祭祀を司る女王であった訳です。 それまでの銅鐸などを使った五穀豊穣の祭祀から、古墳時代にかわり三種の神器に代表される鏡、勾玉、剣を使った祭祀に変遷していきます。 ヤマト王権の大王にも卑弥呼のような祭祀を司る祭祀王としての属性が引き継がれます。現代まで続く新嘗祭や大嘗祭などに代表される祭祀です。 権力は無くてもこの祭祀王としての権威は保ち続けたのです。そこには万世一系という血統が重んじられたと考えられます。源氏や平家は天皇の子孫ですが、この権威は持つことはできなかった。ましてや信長、秀吉、家康もです。例えば、天皇に手を出してしまえば、必ず祟られます。おそらくは皆そう考えたでしょう。だから権力者とはいえ、天皇を排し自らが天皇になることはできなかったし、逆に天皇の権威を利用することを考えたのだと思います。