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2021/10/13 18:08

88回答

私は真如苑の信徒になり五年ぐらいです。

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私は精一杯の歓喜でお金がなくなり、誘ってくれた人をとても恨んでますが、誘ってくれた人は宗教はお金がかかる物だと言われました。誘ってくれた時はかからないと言っていたのに、、、 そして、信徒でかかる以上にお金が入ってくるはずで、入って来ない貴方は精進が足りないからだと言われました。もっと、3つの歩み、歓喜、おたすけ、ご奉仕に励まないからだと注意されました。 一歩引いて考えて見ると、恐ろしい事です。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

今回は沢山コメントありがとうございました。 勇気がでました。

お礼日時:10/23 20:02

その他の回答(7件)

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ここはねずみ講ですか? 相手の立場になる基本的な精神はないのですか? 本当にお釈迦様はそんなこと望んでいると思いますか? と。

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2021/10/20 1:36

参考にしてください。 「真如苑の大律師と対論(動画)」 1 真如教徒の悩みを聞く https://www.youtube.com/watch?v=toyRmd8dSig 2 真如教徒の悩みは・・ https://www.youtube.com/watch?v=vKbnPrSOqao&t=251s 3 末法には・・ https://www.youtube.com/watch?v=vRhICqwJ0dM 4 釈尊の予言 https://www.youtube.com/watch?v=j1RvEJ5czWQ 5 伊藤真乗の出現・・ https://www.youtube.com/watch?v=SbM8pQRTxD0&t=8s

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2021/10/15 15:15

元信者です。 質問者の悩み手に取るほど分かります。 真如苑の一つの目標は霊位向上して因縁を断ち切る事とされてます。 そのために向上摂心を受けたり、 おたすけして所属の歩みを手助けする事も。 しかしながら、宗教アレルギーが根強くなってる今、 お話する事も難しい。 「出来ない理由を並べる」とどこかの成果主義の企業と同じく、やはり教団を大きくしないと行けない矛盾があります。 しんどういん様は 教団が大いなるよりは一人でも確実に救われるように の言葉が矛盾してる。 導き親は霊位向上するために所属の修行の深さが一つの基準になります。 だから発破を駆けないと自分も向上出来ない。 質問者は導き親、経親に対して何も言い訳しなくて良いです。 質問者のペースで行けばいい。

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質問者2021/10/15 18:36

涙が出るほどありがたいお言葉ありがとうございます

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かつて信徒だった者です(霊能までなることは出来ました) 私もお助けには悩みました。今思うと立場が下の信徒に負担かけて、無理に他人を信徒にしたり、騙してつれてきたり、徳を積むどころか自分の階級を上げることばかりに執着していました。 離れてから階級も無い1修行者として新たに仏教を学ぶこともできるようになりました。 このままの信者ではダメなんですか?←苑の教えを信じるならそのままのあなたでもいいかなと思います。無理しないあなたが出来る範囲の徳を積めばいいんじゃないかな。 経親さんには、友人や家族を誘ったが無理だった(今度おたすけ勧誘を行ったら暴力・危害の警告を受けたといってもいいです)(おたすけ勧誘が失敗したら大体みんな嘘の理由をいいますから)

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質問者2021/10/14 14:38

ありがとうございます。 一度 苑離れられ また真如苑に結ばれたのですか? 貴重なご意見ありがとうございます。 私の話しに共感して下さる、経親さんではないので悩みます。 私が苑に誘われた時も、占いと言われほぼ騙されて無理矢理名前書かされ、それがあるのでお声がけなんてしたらいいのかわからないんです。 長々とすみません。

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一如の道という書物が真如苑ではあると思います。 その中の接心の説明に「言われたから」「やれと言われたから」という心で接心に臨むことはしないでくださいと霊尊 真導院の霊言があったかと思います。 これは、接心に限らず精進と言われるものすべてに当てはまるのではないでしょうか? またお救けというのは六波羅蜜の全てを含む完全な行であると言う趣旨が、確か現苑主 伊藤真聡氏の「真如に生きる」という書物にあったかと思います。 そして、真如苑の目的が一人の魂の救済にあるのであれば、お救けを極める事が信仰の目的でしょう。 そして真如開祖は、お救けという事は、自らの心を清浄に磨き上げていく事であるとかつて説いていたと思います。 つまるところ、真如苑の目的は、真実一人の魂を絶対的な安心の世界に導く事にあり、それは他人に仕えていく事を通して至れる道であると説いているはずです。 それは、仏に、他人に仕える事を通して自分をトレーニングしていくことを意味していると思われます。 それはスポーツや芸事と全く同じで、自ら上達したいと自発的に努力し、一歩一歩と積み上げていく道だと思います。 ところで、スポーツでも芸事でも、自らがプレイヤーとして上達したいと思わず、観客でいたい、あるいはプレイヤーに成りたいけれど今は怪我をしていて体調が万全でないという人もいるでしょう。 それは、それで結構なのではないでしょうか? 例えばあなたが極真空手を習おう、弱い自分を変えようと思って道場に見学に行ったとします。 見学していると、「こんなスポーツ、自分にできるだろうか?」「なんだか痛そうだし、できるようになるまでしばらく中段突きの練習だけにしておこう」と思ったとします。 なのに、しょっちゅう道場に来ているからという理由だけで、いきなり組手をやれと言われても、やらないでしょう。 それどころか、自分は見学で来ているだけなのに、組手をやれと言われれば、恐ろしくて道場にいく事自体を辞めてしまうかもしれません。 はっきり言って、自らやる気を出して、思い切って一団上の稽古をしてみる。組手をやれと言われれば、まずやってみて打たれる痛さや、真剣勝負の緊張感、相手との間合い、突きや蹴りを通しての相手とのコミュニケーションを経験しないならば、強くなることはできません。 そういう意味では、できるできないは関係なくお救けに取り組む、その為に「あの人は変わった」と言われるような行動を意識して行っていく事をしないなら真如苑に行く時間と労力とお金は無駄と言えるかもしれません。 が、強くなりたいとは思うが、怖い物は怖い。だから、まずできる所から、見学するところからやりますというのもトレーニングに繋がっていく稽古の一環と言えると私は思います。 空手で組手をやるのには覚悟がなければ怪我をするだけです。一発も打たれずに相手に勝つなど、どんな達人でも無理な話ですから、打たれる覚悟ができるまで、また打たれる訓練を積んでからしか組手はやりません。 組手をやる事を、打たれる事を恐れる心を破らない限り、組手は危険なだけです。 真如の教えを求めるのもこれと同じではないでしょうか? 殻を破らない限り、修行者にはなれないでしょう。 しかし、だれもがいきなり修行者になるわけではない。 もうしばらく見学していたい、あるいは、真如教えなどどうでもよくて、ただ自分の居場所がそこにあるから行きたいという考えの人の方がいても決して悪くはない。 実際、信心もスポーツも、努力と、時間と、お金と、痛みと、悲しみと、悔しさと、それぞれ乗り越えなければならないものは多いはずです。 真如苑の道場に、あるいは空手道場に、ただ通っているだけではなかなか覚悟はできないでしょう。 ですから、経親さんには、そのように正直に言えば良いのではないでしょうか? 自分は見学者でいたいのだと。 但し、見学者でいる限り、自分に実力は全くつかないことだけは自覚しておいてほしいです。 何か自分にとって好ましくない出来事が起こって、それに打ちひしがれたとしてもそれは真如苑のせいではなく、稽古しなかった自分の責任です。 真如苑は教えを指導するだけ、それをもとに訓練して良い事も悪い事も受け止めて行くのは自分自身です。 これが自灯明、法灯明という仏教の根本だと思います。

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