仏教は「空の哲学的考察に長けているの」ですか? 今読んでる本には「仏教にまさるものはないだろう」とまで書いてあります。 「般若心経」において「色即是空」という一句があり、そういう観念があるとか。

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皆さんありがとうございました。参考にします。

お礼日時:10/20 17:39

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経典に「色即是空・空即是色」と書いてあります。「色」とは「目に見えるもの」であり、「空」は実体が無いという意味ですが、見えない物質でできているという意味です。「色即是空」とは見えてはいる物質も見え無い物質でできている。「空即是色」は実体はないが見える物質であるという意味です。実体がないとは水に映った月のようなものです。水をかき回せば月は見えなくなりますが、月が消えてなくなったわけではありません。これが「色即是空」です。本物の月も昼間は見えなくなりますが、これも月が消えてなくなっている分けではなく、見えなくなっているだけなので「色即是空」です。 水や氷や雲は「色」であるが水蒸気のように見えなくなれば「空」となる。物質や体のように目に見えているものが「色」であり、物が原子や分子にまで分解されて見えなくなれば「空」になる。植物や動物が食べられ消化されても消滅したのではなく食べた動物の体の中で形を変えて存在し続けている。原子や分子にまで分解され実体が無くなったことを「空」と言うのです。この世界はすべて色と空でできており、物質は色と空を行き来し姿かたちを変えて変化しているだけなのです。それを新たに生じることも無ければ消滅することもない、増えたり減ったりすることもない「不生不滅」「不増不減」であると書いてあります。 般若心経の前半は「空」についての説明ですが中盤からは「是故空中」とあり、空の中はどうなっているのかという説明になっています。空の中では「無色無受想行識」物資や感受性や行動や認識も無い。また「無目耳鼻舌身意」目や鼻や舌や体や意思も無い、何も無い世界であると書いてあります。「心無罣礙」「無有恐怖」と書いてあり、心を妨げるものは無い、恐れさせるようなものが有ることも無いという意味です。これは死後の「空」の中に天国や地獄や霊界などの死後の世界は無いと言っているのです。 現実の世界は永遠の生命からすればほんの一瞬なのであり、囚われたり執着する必要はないという考え方だと思います。解放されるとは解脱のことです。般若心境に空を悟って知恵を完成させたとありますが、空と解脱には直接的な関係はありません。 解脱とは呪縛から抜け出し解放されるという意味です。自分を縛っているものが三つあります。 一つは煩悩からの解脱です。苦しみの根源は煩悩にあるとされ釈迦は煩悩を滅すために厳しい修行をしていましたが、そのような修行は無駄であることを悟り「煩悩即菩提」を説いています。煩悩とは欲のことであり菩提とは覚りを開いた仏の境地のことです。煩悩が菩提であるとは仏にも欲望があり苦しんでいる人々を救いたい笑顔にしたいという思いが仏の欲望です。利己的な欲望ではなく利他の欲望であれば煩悩が菩提となる。これを「覚りを開いた」と言います。 二つ目は無明からの解脱です。無明とは無知とも言い、知らないという意味です。自分が煩悩に支配されて生きている事実に気づいていないとか、生・病・老・死の苦しみから逃れる方法を知らないという意味です。この無明から解脱することを「悟りを得た」と言います。 三つめは六道輪廻からの解脱です。ヒンズー教は六道輪廻からの解脱は輪廻転生からの解脱であると説き、魂の消滅を目的としています。釈迦も最初はそれを踏襲していましたが、後にそれを否定し六道輪廻からの解脱による「成仏」を説いています。 「覚る」と「悟る」の二つの漢字があります。日本ではどちらも「さとる」ですが中国語は読み方が違うし意味も違います。「覚る」は覚醒するとか目覚めるという意味で、誰もが備えている仏性を覚醒させるという意味であり、これを成仏(覚りを開いた)と言います。 人間の内面には鬼と仏性の両面を併せ持っているというのが仏教の教えです。仏性とは慈悲のことです。慈悲とは地獄に在る人に救いの手を差し伸べたい、苦しんでいる人を救いたいと思う気持ちであり、それを実践するのが成仏の道である菩薩行です。ボランティアも困っている人を助けるのも虐待されている子供を救い出すのも菩薩行です。菩薩行を重ねることで仏性がその人の人格となる。それを「覚りを開いた」とか成仏した(仏に成った)と言います。成仏とはすべての苦しみから解放された状態のことです。 「悟る」は気付くとか理解するという意味です。釈迦は人間の悩み苦しみの根本原因が何なのかを悟った(気付いた)ということです。その根本原因は煩悩であるということです。原因が分かれば、それを克服するにはどうすればいいかを悟る(気づく)ことができます。その他にも釈迦や後に仏となった弟子たちが悟ったことが膨大な経典として残されています。「悟りを得た」とは迷いが消えると言う意味です。

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こんにちは。「tyran」です。 究極的な話ですが、人間は「未来」において、「魂:真我」の「輪廻転生の繰り返し」の末に、どのような人間になるのか、大きく二つに分類されます。 つまり、それは①悟りを開いて転生の繰り返しから解脱して、入滅後、仏界である涅槃に帰り、神様の勉強をされて神界に進み、最終的に「星の神」になられる存在と、②悟りを開くことは出来なかったが、「未来」で「知的生命体:進化した宇宙人類」となり、「善なる宇宙人」になるか「悪なる宇宙人」になるかなのです。 ①「悟りを開いて、最終的に星の神になる」 ②「悟りは開けなかったが、最終的に知的生命体になる」 上記の①は、まさに「永遠の真理」を人生で悟られて「空思想の真髄」を獲得し、その後、入滅後は「月」に帰り、「神様の勉強」を数万年行われて、最終的に「惑星神:星の神」になられます。 「宇宙」には、無数の「星々」が存在しますが、「担当神様」がおられない星もあるわけです。現在「火星」には、担当神様がおられず、「地球」には担当神様がおられます!その神様の「分魂」が、「海の神」「山の神」「森の神」「湖の神」「河の神」等になられているわけです。 今、世間で「パワースポット」として話題の神社に「瀬織津姫の神社」がありますが「瀬織津姫」は「滝の神様」です。 世界に様々な「神様」がおられますが、その統括神様は「惑星神」である「地球の神様」です。「人」→「仏」→「神」、「仏教」とは「仏陀になる知恵を授ける教え」でもありますが、仏陀とは、「人」が「神」になるための一過程の姿です。 「輪廻転生の繰り返しから解脱する:解放される」と言う「哲学的思考」から考察するなら、「仏教」は最強となります。しかし、それで終わりではない。 「悟りを開いて仏陀になり、入滅後に涅槃に帰ってどうなるの?」と、聞かれた時、確かに「苦痛」もなくずっと「仏界」で暮らし続けられるわけですが、それで終わりではない。 つまり「仏界」に帰って、さらに「神様の勉強」を「月」で行い、その後「神界」に進まれて「神様の仕事:星の神」をされるようになるわけです。 「月」は、落ちて来ません。 すなわち「生れ落ちない世界:涅槃」が「月」にあるわけです。 さて、②「悟りは開けなかったが、最終的に知的生命体になる」は、文字通り、何十回、何百回「転生」を繰り返しても「悟れなかった」場合もあるわけで、その場合は「未来」で「知的生命体:進化した宇宙人類」となるわけですが、実は、ここにも「空思想」、「こだわり」とかけ離れた真理があります。 「知的生命体:宇宙人類」には、「善の宇宙人」と「悪の宇宙人」があって、これは同じではなく「転生の末」に、本人が選んだ「道」でもあります。 例えば、今世で「善人」として生きてる人々は、「前世」でも「善人」であり、ずっと「善人」「善人」「善人」…と言うかたちで「輪廻転生」を繰り返してきたわけです。つまり、今世で「善人」であれば、「来世」も「善人」なのです! その人は、「転生の末」に悟れなくても「善の宇宙人」になられております。逆に、今世で「悪人」として生きてる人々は、「前世」でも「悪人」であり、ずっと「悪人」「悪人」「悪人」…と言うかたちで「輪廻転生」を繰り返してきたわけで、今世で「悪人」であれば「来世」も「悪人」をやっているはずなのです! 「反省しない人物は、どこまで行っても反省しない」、ゆえに「悪人」は「悪人」を続けて行きます。つまり、この場合「転生の末」に「悪の宇宙人」になっているはずなのです。 「悪人」では「悟り」は開けません。 「悟り」を開ければ最終的に「星の神様」になり、 「悟り」を開けなければ最終的に「善の宇宙人」か「悪の宇宙人」のどちらかになられます。 要するに、現段階で「未来の姿」は確定しており、 今世で「悟り」を開かれていれば「星の神」になられており、今世で「善人」であれば「善き宇宙人類」となられて、「悪人」であれば「悪しき宇宙人類」となっているわけです! 私(tyran)は、2011年5月に「悟り」を開いており、仏陀:生き仏になっており「未来」で「星の神」になっております。(これも確定済みです) 今、質問者様が「悟り」を開かれていないのであれば「善人」である限り「未来」で「善き宇宙人類」になられております。 現在「地球」では「確定状態」となっており「現在、どのような人物であるか」で「未来」も決まっております!「仏陀の未来」も、「善人」「悪人」の未来も確定しました。 つまり、「宇宙」には「こだわり」が無くて、まさに「空思想」であり、「善人」は「善の宇宙人」、「悪人」は「悪の宇宙人」になるだけです。「善人でなければ進化できない」とか、「悪人は知的生命体になれない」とか、「宇宙」には、そのような「こだわり」が無いのです! 「自分がなりたい自分になるだけ」です! すべて「自己選択」で「自己責任」なのです。 「天国」も「地獄」もありますが、死後、自分で選んで「光の世界」に行かれるのか「闇の世界」に行くのかだけなのです。「地獄」も、堕とされるのではなくて、好む人間が「地獄の門」を叩いて入って行くだけです。 自分と言う存在は、「人生の創造主」です。 「人生」や「未来」は、自分で創って行かれるのです。 「空」、宇宙に「こだわり」はありません。 以上です。 ありがとうございました。

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分かりやすくいうと部分と全体ということです。 全体があって部分がある、部分があって全体がある。 部分は全体に繋がっている、部分同士も繋がっている。 華厳経に「一即一切 一切即一」と言っていますが、こちらの方が分かりやすいということもあるでしょう。 禅語で一心一切法 一切法一心という言葉もあります。 私は「生命力は宇宙力 宇宙力が生命力」と言っています。 誰でも宇宙全体の力で生きている、それは誰とでもどんなものとも繋がっているということです。

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ダンマパダでは >その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。ー 空飛ぶ鳥の迹(あと)の知りがたいように。 食物をむさぼらないというのは 現世的快のことで 執着からはなれることです。 無相というのは これが我という自己限定の事です。

ダンマパダからの引用の空は本来的な何ものにも囚われない我の状態ですが 般若心経の空は少しニアンスが違います。 食の逆の事なのですが ダンマパダの冒頭にはすべては心によって生じるとあります。 仏教の食は四食と言って 食べ物を消化吸収するだけでなく 情報や刺激を得る事も食と言います。 その消化の際 これは自分これは自分ではないと分けてしまう事が生じてしまいます。 色と心は影響し合い 最終的にこの世で得たものを自己と誤認してしまいます。 ですから 般若心経の空は我と言うか心の事です。 4度も似たような表現が出てくるのは互いに影響し合うということです。 般若心経の後半とは逆に解脱していな状態の事となります。

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老子道徳経にもこのような言葉があります 「道は空っぽであるが その働きは無尽であり満ちることが無い。 底なしの深淵のように深く、 それは万物の根源であるらしい。 そしてそれは全ての鋭さをくじき、 紛れを解き、輝きを和らげ、 全てのチリと同化する(和光同塵)。 たたえられた水のように奥深くて、 どうやら何かが存在しているらしい。 私はそれが何であるかはわからないが、 万物を生み出した天帝のさらに祖先であるようだ。」 https://k10p.net/?p=823