コンスタンティノープル教会とローマ教会はなぜ対立したのでしょうか その結果何が生まれたのでしょうか お願いします

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フィリオクエ条項など信仰上の相違もありますが(注*)、背景的には世俗での対立が反映されたものだと思います。対立の結果、両教会は分裂し、それぞれのキリスト教文化が発展したように思います。 11世紀以降、両教会の分裂が固定化するまで、両教会は使徒継承の一つの正統教会であって、単に様式・形式において地域性があるということでした。歴史的にいえば、教会組織は、イエスの直弟子である使徒、そしてその後継者である司教(主教)を中心として形作られました。黎明期に、エルサレム、アレキサンドリア、アンティオキア、ローマが四大中心地ともいえる形に成長しました。 やがて、5世紀になると、東ローマ帝国の首都という政治的理由から、コンスタンチノープル(現イスタンブール)が総大司教区に格上げされ、且つローマに次ぐ序列第二位の位置付け、東方教会においてのリーダー格が与えられました。この体制を、歴史的には五本山制ということもあります。実際の分裂は11世紀ですが、既にここから分裂への歩みが始まったと言えるのかも知れません。 西欧は、5世紀の西ローマ帝国崩壊と共に、政治的に不安定な状況になり、文化的に荒廃する時期を過ごすことになります。この時、ローマ教会は、世俗的な後ろ盾を失い、存続の危機というべき状況に陥りますが、困難な状況下、ゲルマン地域への宣教、フランク王国の改宗などによって、何とか落ち着きを取り戻すに至ります。こうした宣教活動などを通し、荒廃した時代に、結果としてローマ教会が文化の担い手として機能するということになります。また、ゲルマン地域への初代教会のような宣教は、その後の欧州外への宣教活動の下地となったのかも知れません。 一方、東ローマ帝国では、皇帝権力が教会に支配的影響力を持つ形態でした。信仰的には世俗化というのはあまり好ましいことと言えなかったかも知れませんが、正教分離の現代とは違い、政治と直結していた東方教会は、その安定下に一定の豊熟をみます。現代に伝わる東方教会の荘厳な典礼にも、その繁栄の姿が反映されているのかも知れません。やがて、東ローマ帝国も崩壊しますが、東方教会のスラブ民族への宣教を通して東欧地域のキリスト教化がなされました。 旧東西ローマ帝国地域が、それぞれ別の歴史を歩み、両教会もそれぞれの社会で教義・典礼を別個に発展させていった中、世俗的対立を背景に東西教会は分裂しました。流れとしては、8世紀の聖像破壊運動、9世紀のフィリオクエ条項問題など信仰的な問題もありましたが、分裂の直接的きっかけとして、11世紀にコンスタンチノープル総主教が当地の西方教会を閉鎖させ、西側にそれまでの慣習を破り対等な立場で書簡を送るなど、対立姿勢を先鋭化させました。これに対し西側は使者を送りましたが東側は会合も拒否し、使者は破門状を置いて帰還してしまいました。東側も逆破門し、東西教会は分裂しました。個人的に思うに、政教未分離の当時、コンスタンチノープル(東ローマ帝国)として、政治的にローマ教会の序列上位を認め続けたくないような気持ちがあったのかも知れません。その後13世紀の西側十字軍によるコンスタンチノープル略奪などもあり、別離状態は固定化してゆきました。 (現代になり、1965年、相互破門は解消されています。) ======= 注*: 教義の主な差異は、西方教会が「聖霊は父なる神からも、御子イエスからも発する」としたのに対し、東方教会が「父のみから発する」とした点です。(この相違は、現代のカトリック教会と正教会との間でも解消されていません) とはいえ、違いを強調する場合もありますが、教義の多くは共有されているように思います。

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キリスト教の歴史…Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 <記事の抜粋> 古代: > 東方諸教会の成立: 公会議による教義の確認は正統教義の確立を促したが、その一方で異端とされた教説の保持者が教会から分離することにもつながった。 異端とされた説には、消えていったものも多かったが、正統派の勢力が及んでいない地域で活路を見出すものや、自派の勢力の強いところで独自の発展を遂げたものもある。アリウス派は、最終的には消滅したものの、一時はゲルマニアを中心に布教し、それなりの期間にわたり勢力を保った。 現在残っているそのような教派に東方諸教会がある。431年のエフェソス公会議で異端宣告されたネストリウス派はペルシアを経て中央アジアへと勢力を広げた。更には唐代の中国にも三夷教の一つ景教として伝来した。景教は大秦寺が建立されるなど、唐代では栄えており、仏教の浄土信仰等に与えた影響も指摘されている。現代でも、イラクのアッシリア教会(ネストリウス派)およびその分枝であるインドのトマス派教会(マラバル派)に継承されている。また451年のカルケドン公会議で異端宣告されたキリスト単性論は、シリア・エジプト・アルメニアでは多数派として残り、イスラム教化する以前の東方では、数において他を圧していた。現在も単性論教会はシリア・エジプト・アルメニアに相当数の信者を持っており、またカトリックや正教会とも一定の交流を保っている。単性論教会とされる教派には、エジプトのコプト正教会や、その姉妹教会エチオピア正統教会、シリアのシリア正教会(ヤコブ派)や、元小アジア(現在はコーカサス地方)のアルメニア使徒教会などがある。但し、これらのいわゆる単性論教会は自らの教説を単性論と看做される事を拒否しており、特に正教会とこれらの教会の和解が急速に進展している。より中立的な呼び名としては非カルケドン派がある。 ※本サイトはキリスト教会の重要な歴史が書かれています。年表と記事で理解して下さい。ローマ教会もルター、カルバンの出現でプロテスタント派と分裂しました。 CASICOTI

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主因は、ロ-マ帝国の分裂で、教義上の違いは、交流が縮小する事で拡大しました。正教会(=コンスタンティノ-ブル教会)でも、カトリック教会でも、天使=聖霊などというバカな教義はありません。また、ロ-マ・カトリックが東ロ-マ帝国の下へ入った事実もございません。 現在、ロ-マ・カトリックと正教会に教義上の違いは無く、祝日が違う、聖人が違う程度です。 昨年もロ-マ教皇がトルコを訪問し、世界大主教は、正教会の大主教、ロ-マ教皇は、ロ-マの大主教である旨、確認しています。 最近のバチカン主宰のアッシジの会合に参加したのは、カトリック、正教会、日本仏教僧侶でした。

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