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2021/11/24 7:50

99回答

1938年以降、なぜ日本は軍国主義に傾いていき、またそれが可能だったのですか?

補足

すみません間違えました。1925年で訂正願います。

歴史 | 日本史267閲覧

回答(9件)

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きっかけは第一次世界大戦です。 第一次世界大戦では国家総力戦が展開されました。これに衝撃を受けたのが陸軍だったんです。日本にはとてもじゃないが国家総力戦を展開する能力はない。いずれ世界大戦が再来して、日本が本格的に戦争の渦中に飛び込んだとき、日本の能力ではとても戦争を遂行できない。 それは国家の存亡に関わる重大事であったとともに、陸軍という組織の生死にも関わる問題でした。これに対して陸軍のなかで「総力戦に対応できる能力を手に入れればいい」という考えが出てきます。 その答えが国防国家や外部に策源地を求めるというものでした。 1928年、木曜会会合で満蒙を確保する満蒙領有論が提案されました。 これが後の満州事変につながるわけですが、その目的は満蒙の資源や策源地の獲得、対ソ防衛ラインの構築などにあり、国家総力戦への対応力を得ることにありました。 また、政治に介入し、国家総力戦に耐えうる国家への改造も企図するようになります。いわゆる国家社会主義的な体制を構築し、軍事に国家総力を傾けるべく計画経済を導入する。 1934年、陸軍パンフレット事件で配布された「国防の本義と其の強化の提唱」のなかに書かれていますが、国家総力戦時代に対応できるよう、国家を改造し、国力を増強しようとしたわけです。 これが可能になったのは政府が力を失っていく一方で陸軍がその力を増していったことが背景にあります。 1940年には国家の全能力を国防に注ぐ国防体制が正式な国策となりました。同年大政翼賛会が発足し、議会制民主主義は崩壊することとなります。

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何故、江戸幕府が崩壊したのか。江戸幕府は、欧米列強から日本の独立を守るに全く能わなかったから。江戸幕府に変わり、日本の独立を守るための挙国団結による軍事政権として明治政府が立ち上がった。 こんな状況に変化をもたらしたのはロシア革命。日本は日露戦争に勝ちはしたが、まだまだロシアは強大だった。しかし第一次世界大戦のドサクサにロシア革命が起きた。これで日本はやっと一息ついた。有色人種の国は植民地にされても文句が言えなかった時代のことだ。この安堵の気持ちがどれだけ大きかったかは、計り知れないものがある。これを境に、日本は軍事一辺倒の国の在り方を改めた。一気に民主化の波が国中を包んだ。 しかし、それで政党政治が始まってみると、民主主義だの議会政治というものはどうも国民が思い抱いていたような素敵なものではなかった。今でもそうだが、政党同士がひたすらお互いのアラを探して足を引っ張りあう政治。政党政治の現実は、国民を失望させるものだった。そんなタイミングで世界恐慌が起きてしまう。政党内閣はこの大混乱に何らの対策も取れなかった。そして相変わらず足の引っ張り合い。国民の支持は一気に政党から離れた。 これに変わったのが、古き良き明治に戻ろうという世論。欧米列強の前に風前の灯火だった日本人が、みんなで力を合わせてこの国を盛り立てて来たから今があるんだ。足の引っ張り合いばかりの民主主義はもう止めて、またみんなで力を合わせよう。明治政府は軍事政権だからね。軍部に人気が集まりだした。 その軍部が問題視したのがブロック経済だった。さして植民地を持たない日本は、ブロック経済で崩壊的な不況に見舞われていた。こんな経済状況を許しておいて、国を守れるのか?国が豊かで、初めて国防は適うのだ。早急に経済を立て直さないと、日本はまた植民地化を怖れてビクビクして過ごす国に逆戻りしてしまうのではなかろうか?軍人がそういう発想になるのは当然だろう。 かくして軍部は、ブロック経済との戦いを始めた。また1つだった日本をバラバラにした民主主義者への弾圧も行った。全ては政党政治に対する失望から、国民が軍部に求めたものだった。

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個人的には、昭和初期の日本では擬似軍国主義、軍国主義もどきはあっても、本来の意味での軍国主義国家は成立してはいなかったと思っています。 軍国主義の定義を、仮に「国家の総力を戦争目的のために合理的に組織する主義」であるとすると、本来の意味での軍国主義国家とは、戦争目的のために国家の総力を最適に利用する国家のことであり、その極限形態はドイツのルーデンドルフの言う兵営国家(ギャリソン・ステイト)ですが、これにもっとも近い現実の国家は日本ではなくアメリカです。第二次世界大戦の時もそうでした。 当時のアメリカは、戦勝ということにしっかりと国家目的を定め、これに向かってわき目もふらず驀進しました。 全ての技術者、自然科学者、数学者は言うに及ばず、社会科学者から人類学者、はては哲学者まで動員しました。その成果の一つが有名なルース・ベネディクトの日本研究の書「菊と刀」です。軍事教練を各大学の必修科目とし、大学生を予備将校にして有事に備える体制を作ったのもアメリカです。マンハッタン計画による原爆の完成はアメリカ軍国主義による最大の成果と言えるでしょう。第二次世界大戦中のアメリカこそはまさに軍国主義の権化であり受肉者でした。 日本ではこんなことはとても考えられませんでした。たとえば戦争に社会科学者を動員すると言っても、日本の戦争指導者は、社会科学なんか戦争には無関係だと思い込んでいました。 それどころか社会科学と社会主義との区別もつかないままに、社会科学者なんかアカの仲間で胡散臭い連中だと思っていた者さえいました。大学生を動員する学徒出陣が行なわれたのも、戦局が逼迫して兵力不足でどうにもならなくなった昭和18年の秋からで、アメリカと比べると大幅に遅れていました。また戦前のアメリカの学生は軍事教練を重視し、これを名誉だと感じていたのに対して、日本の学生は軍事教練を嫌い、配属将校を馬鹿にして、なるべく教練をサボることをカッコいいことだとしていました。アメリカと日本では一事が万事このような有様でした。 戦争中の日本では、国家の総力を戦争に勝つために動員する、こんな発想はまったくありませんでした。あったのは掛け声だけでした。「聖戦完遂」「八紘一宇」「一億玉砕」などの抽象的なスローガンがただお題目のように繰り返し唱えられるのみで、国家の総力を戦争での勝利のために目的合理的に組織しようとする契機はどこにもありませんでした。だから先の大戦で日本はアメリカに負けたとも言えます。このように考えると、戦時中の日本くらい軍国主義にほど遠い国はなかったとすら言えます。軍人が威張っていたから昔の日本は軍国主義だったという浅薄な考えでは、戦前・戦中の日本の実相を理解することはできません。 五・一五事件やニ・二六事件などの軍人によるテロの恐怖、あるいは「国家総動員法」というそれだけ見れば軍国主義の極みのような体制などから、戦前・戦中の日本は軍国主義国家だったと誤解する人が大勢いますが、すでに論じてきたように、戦前・戦中の日本は、その基本的な発想や精神において本来の軍国主義からはほど遠く、また人的物的資源の動員の実像から見ても到底軍国主義ではありませんでした。永田鉄山など日本陸軍の統制派の軍人たちは、第一次大戦時のドイツのような軍部独裁による国家資源の総動員と兵営国家の樹立を理想としていましたが、戦時中に社会科学者の動員一つ満足にできなかったことから見ても、そうした理想は未達成に終わったと言わざるを得ません。 戦前・戦中の日本にあったのは、軍国主義ではなく、軍国主義「もどき」の軍部専制国家です。軍人が独走して政治的な主導権を握り、国内を専制的に支配して何ごとにも軍事を優先させる国家体制です。昭和初期の日本で成立したのはこのような国家体制でした。それは、五・一五事件やニ・二六事件のような軍人による相次ぐテロ、満州事変に代表される軍部の暴走、独走による対外的な軍事侵略行動、昭和金融恐慌や世界大恐慌などの経済危機、五ヵ年計画の実施によるソ連の強大化や中国における反日ナショナリズムの流行など国際社会における客観情勢の変化、統帥権干犯問題、天皇機関説事件、国体明徴声明、軍部大臣現役武官制の復活、大政翼賛会の発足など軍部の政治的優越や立憲議会政治の衰退を促進する政治的事件の数々などによってもたらされたものでした。 こうした歴史の流れの根本に常にあったのは、軍部専制をよしとする日本人の意識と日本国内の空気でした。 昭和初期の日本でなぜ軍部が暴走できたのか。軍部が暴走、独走したのを許したのはなにかと言えば、それは国民の軍部に対する熱狂的な喝采であり、無条件の信頼です。このような国民の支持なくして、軍部が暴走、独走することは断じてありえませんでした。 満州事変が起きた時、国民は日本軍の勝利に沸き立ち、その迅速な行動を讃え、敢闘する皇軍に献金しよう、飛行機などを献納しようと呼びかける運動に積極的に協力しました。五・一五事件では、犬飼首相を暗殺した将校たちに多くの国民は同情し、反乱罪で軍法会議にかけられた将校たちの助命嘆願運動が起こり、その結果将校たちへの判決は非常に軽いものとなりました。このことが後の二・二六事件での陸軍青年将校たちの反乱を後押しし、それによって軍部のさらなる影響力拡大を招いたと言われています。 そのニ・二六事件が起きた時、民衆は「兵隊さん何してんの」などと言って決起部隊の兵士に話しかけたり、要衝を占領している軍隊の銃器をさわってどやしつけられたりしました。事件で戒厳令が敷かれた地域には、野次馬が高みの見物とばかり続々と集まってきました。決起部隊がたとえ反乱軍であろうとも、 一般国民を襲う可能性があるなどということは、この時誰も夢にも思ってはいませんでした。国家の命令もなしに勝手に動き出した軍隊がいかに危険この上ないものであるかは明らかだというのに・・・です。 戦争を本職とする軍隊の本性は野獣です。その野獣が国家権力によって制御されて、普段は爪と牙を隠しているにすぎません。それが解き放たれたらどうなるか。略奪、強姦、殺人、暴行を欲しいままにするに決まっています。このことは古今東西ことごとく軌を一にしていて、例外はないと言ってもいいでしょう。 だから軍隊が勝手に動き出したら、民衆は蜘蛛の子を散らすように逃げる。これが鉄則です。ところがニ・二六事件に際しては、民衆は逃げるどころかもの珍しげ、親しげに兵隊に近寄っていったのでした。 その頃になると、 決起部隊は勝手に動き出しただけではなく、首相をはじめとする政府高官を殺したことが知れ渡っていました。 こうなると明らかに反乱軍。無名の師。何をするかわかったものではありません。 しかし東京の民衆は、天皇陛下の軍隊が、陛下の赤子(国民)を襲うなどということは夢にも思いませんでした。これほどまでに、昭和初期の日本国民は軍隊を信頼し切っていました。この無条件の信頼あればこそ、昭和の軍隊がいかなる掣肘をも振り切って暴走、独走することが可能だったのです。そしてこうした日本国民の軍隊に対する信頼感、軍部の行動を国民が容認する空気を作り出す上で大きな役割を果たしたのが、朝日新聞をはじめとする日本の大新聞、大マスコミでした。 当時の日本の大新聞、大マスコミは、先を争って軍部の独走を歓迎し、軍国主義(もどき)の前衛となりました。 満州事変が起こると、日本のマスコミは筆を揃えて、日本軍の行動はすべて正しい、事の起こりはすべて支那軍の陰謀にある、断固として膺懲(征伐)すべし、兵士10万の血潮に換えて獲得した満州は絶対に手放すなと連日書き立てました。こうしたマスコミの煽動的な報道が、軍部の専横や独走を支持する国民世論の形成に大きな影響を与えたことは言うまでもないでしょう。

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大正時代は民主主義が広まり、昭和になると軍国主義が訪れる、という構図はありますね。 大正時代は、自由、民主を追求する人たちが活発に活動できましたが、一方で、それを憎々しく思う勢力も勢いを伸ばしつつありました。 明治維新は王政復古、を掲げて薩長の武士と公家の岩倉らが結託して徳川をつぶして政権を握り、藩閥政府を作りました。国民を従わせるため、教育が必要で、教育勅語を定め、国民は天皇のためにある、という考えを浸透させようとしました。薩長政府に不満を持つ人たちが自由民権運動を起こし、それを押さえつけるだけでは、列強先進国の仲間入りができないので、議会を作ることにし、民主主義を一応取り入れるが、天皇が主権を持つ、国民はそれに従うという憲法を用意しました。 非民主的な憲法、議会ではあるがそのもとで、民主主義が明治から大正に向かって国民のなかへ広がっていきましたが、これを憎む偏狭な国家主義、国粋主義の勢力も強くなり、事件を起こしていきました。 政党政治においては、党利党略のため、憲法を引き合いに出して敵対する相手をけん制していきました。 政党政治家は体制維持のために、言論弾圧立法を進め、内閣を追い詰めるため統帥権干犯問題、などを持ち出しました。その副産物として軍部の発言力が増していき、軍がやることに誰も文句を言えない状況を作っていきました。 それが目立ってきたのが昭和の時代です。 政党政治家が、目先の党利党略を追求した結果、おもってたんとちゃう?、政党がつぶされちゃった、軍が怖くて誰も「何もいえねー」、という時代を招きました。 しかし、つぶされた党の人間は、相手に譲るくらいなら、共倒れの方がましだ、という、愚の骨頂、の考えだったかもしれませんね。 どこの世界でも、ペンは剣より強くはなく、戦車や公安、陸軍部隊には歯が立たないのに、しってかしらでか、争っていたら国権を軍にのっとられる、ということはいまも続きますね。

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普通選挙法で、有権者のほとんどは小学校しか出ておらず、国際政治も近代主義もわからぬまま、威勢のよい空言を叫ぶ候補に投票するようになったのが、昭和前期の特徴です。 ポピュリズムの時代の始まり。 こういう有権者を愚民扱いする選挙戦術は実は犬養毅が始めたもの。だから、軍国主義によって犬養が殺されたというのは不思議な巡り合わせを感じます。