ゴータマ・ブッダは無我の悟りを開き、ラマナ・マハルシは真我の悟りを開きました。両者の悟りの境地は同一でしょうか?

補足

言葉を超えたところに真理があると思っています。「私はない」「私はある」という対立を超えたところに真実があると感じています。

宗教 | 哲学、倫理1,006閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">100

1人が共感しています

ベストアンサー

1

1人がナイス!しています

なるほど!無我と真我を矛盾なく説明して下さっていますね。 個我は無我で、真の我は今ここの実際の体験そのものですね。 素晴らしい知恵をありがとうございます。 本来の自分である真我がないなんておかしいと感じていました。 ゴータマ・ブッダとラマナ・マハルシの境地は同一ですね!

ThanksImg質問者からのお礼コメント

14名もの回答者さんたちにご回答を頂きましてありがとうございます。 たくさんのことを学ばせて頂き感謝に堪えません。 諸法無我は諸法非我と理解したほうが学問的に正確であることは大きな発見でした。14名の内、幾人かは実際に悟られているようでした。 ベストアンサーを選ぶのに甲乙つけがたい思いです。 私がzenさんの回答をベストアンサーに選んだ理由は、非常に論理的で大切なことを簡潔に表現し得ている点です。

お礼日時:2021/12/2 9:21

その他の回答(13件)

0

ID非公開

2021/11/30 23:45

ゴーダマは、アートマンを積極的に追及していたと考えるのが、インド哲学の世界の有力説です。中村元博士を始め、少なからずの東大名誉教授たちが「断定」して論を展開されています。ここでは、その論拠についてつぶさにには述べませんが、一つ、原始仏典の中の挿話の中には、ジャイナ経典と共通のものがあり、それはアートマンの追求を当然としているものです。 ゴーダマにしても、ラマナにしても、「悟り」と東洋で云われる、神秘主義的合一体験部分については大差はありません。それは、神秘主義的な体験という典型的で普遍的なものだからです。 因みに、日本於いては、「神秘主義的合一」という意味を説明する文化が、原始以来皆無でりますので、何を言ってるのか理解できないと思います。実際、江戸時代に於いて「理」という漢字の意味が理解できませんでした。 そして、ラマナ・マハルシの「悟り」なるものは、16の時の「体験」の事を指します(現地でも確認済み)。なんの、修行もない突然の「体験」であり、ラマナ自身は、それを殊更重視していません。 と、いうよりキリスト教神秘主義を始め、ヒンドゥー神秘主義において、「悟り」自体は、出発点に他ならないからです。 この空気を機微を説明するならば、例えば、「敬天愛人」という言葉があります。中村正直という人の言葉で、西郷隆盛の座右の銘です。 「敬天」とは、①古代中国に於ける神秘主義的合の「知識」をさします。 「愛人」とは、①を前提にした「キリスト教」の実践を指します。 このように、悟り=神秘主義的合一体験と、その実践とは区別すべきだと思います。 逆にゴーダマは、その「体験」を求め生命を賭して修行しました。ですので、つぶさにその過程が明かされています。そこがまず、ラマナとゴーダマの違いです。 そして、「体験」の深さに於いては、ゴーダマよりも、ラマナの方が上でして、説明が上手です。 問題は、その「体験」をどのように「掘っていくか」であります。 その違いが、ゴーダマと、ラマナの最大の違いなのです。 漢訳仏典にいて、「ダルマ」が「道」と翻訳されているように、ゴーダマ、仏教神秘主義の最大の力点は、どのように「世間」において実践しいくかにあります。 ラマナは「世間」に出ずに一生、山の中にいました。 これは、「体験」を掘ることを重視していたからだと思われます。(だからこそ、彼の説明は神秘主義的体験において、世界の中で群を抜いている) 因みに、神秘主義的な体験には段階がありますが、漏れなく、霊的覚醒が始まります。 そして、漏れなく、金品と引き換えに占いまがいの事をすることは、「絶対」に在りません。日本の自称、スピリチュアリストのように、「銀貨30枚」で売るということは考えられません。 その「覚醒」と、どう向き合っていくかというのが、神秘主義における大きな主題だからです。 ラマナは、「体験」を掘っていくことに、力点を置いているように思います。ですので、いわゆる「霊能開発」的な部分もあります。一人称的な世界に於いてですが・・ 2人称としても、母や、牛が死んだときに、霊的エネルギーを発揮しています。 ゴーダマは、一人称的な部分の中に「完全に」閉じています。 そこが、神秘主義的な体験を果たしていない人には、まるで「無我説」のように思われるのです。 しかし、瞑想の座り方一つとっても、明確に霊的エネルギーを意識しています。(サールナート博物館にある古い仏像レベルですが) とりあえずこの辺でやめときます

ゴータマは、アートマンを積極的に追及していたと考えるのが、インド哲学の世界の有力説です。中村元博士を始め、少なからずの東大名誉教授たちが「断定」して論を展開されています。 →貴重で本質的な情報をありがとうございます。 やはり洋の東西を問わず「悟り」という「神秘主義的合一」は普遍的なものなのですね? 問題は、その「体験」をどのように「掘っていくか」であります。 →ゴータマは「体験」を重視し、ラマナは「体験の深さ」を重視したのですね? 宗教神秘主義の神秘的合一という観点から貴重な説明を頂きましてありがとうございます。

0

仏教では真実の見方は真理と異なり賢者及び聖者の各段階でも違うというのが定説です。それゆえ、仏教の言説は諸説入り混じっていて多いのですが、仏典研究者・翻訳者の見解とかも絡んでくるので余計にややこしくなっているのです。 だから、他のことよりもまず一つづつ自己の見方を確立することに注力した方が賢明です。

だから、他のことよりもまず一つづつ自己の見方を確立することに注力した方が賢明です。 →仏教思想の2600年間は宗派に分裂し宗派ごとにかなり変容して来て今日に至ります。ですからゴータマ・ブッダの無我の悟りに原点回帰して、比較宗教学的にラマナ・マハルシの真我の悟りとの関係を明らかにすることを目的にこの質問を発した訳です。 自己の見方の確立をご提案頂きましてありがとうございます。

0

ID非公開

2021/11/29 21:09

両者の悟りの境地は同一でしょうか? 違いますよ。 ④最高自己(梵我一如)→⑤ブラフマン→③アートマン(至福の体験)→①プルシャ(自己)→②プラクリティー→五蘊(幻想) 数字は解脱と言われているものの中で悟る順番 ① プルシャ 阿羅漢(小乗の解脱・シャーリプトラ) ② プラクリティー 自性空 ③ アートマン 輪廻からの解脱(釈迦) ④ 最高自己 梵我一如(マハルシ・シャンカラなど) ⑤ ブラフマン 宇宙の根本原理 最高自己とブラフマン、プルシャとプラクリティーが自己(観る者)と宇宙(観られる者)の関係。 五蘊を超えたところに自己(我)があり五蘊の中に自己(我)はありません。 これをどう表現しているかの問題。 プルシャ(自己)に意識が届くと五蘊の中に我がないことは解る(無我)。 imoさんの回答を見る限りプルシャは悟ってるかな。 「自分は世界の外から、ただ眺めています」という一文 肉体が自分ではなく自己を自分だと言ってます。 自分が世界であり、世界が自分であることに気づきます。 これは梵我一如ではない。

かなりインド哲学を研究されたお方だと拝察いたします。 ゴータマ・ブッダの無我の悟りとラマナ・マハルシの真我の悟りについて違うとご回答いただいているので、浅学非才の私にも分かるように無我と真我に話題を絞って分かり易くその理由についてご説明頂けないでしょうか?無理を言って申し訳ありません。

0

同じです。 根拠はラマナマハルシは「who am i」において真我を「世界の滅、対象の滅した処」といっており、それは仏教の定義する涅槃と同じ境地であることからも説明は容易なことです。

無我とはアナートマン(無実体)つまり空です。 無実体というのは世界の滅であり、対象の滅です。 その無実体の境地において、人が死んでも、その人が死んだという実感は一切起こってきません。 また対象が滅しているため、認識、感覚の観察ということも終わっています。 悟りを開いた人は全てその無実体の境地に浸かっています。 その境地に名前を付ける必要はありませんが、仏陀はニルヴァーナといいマハルシはアートマンといいました。 アートマンの意味が実体という意味なのでややこしくなっているのです。

0

同じです。悟りとは、本当の自分を知ることです。 悟りを開くと、自分が世界であり、世界が自分であることに気づきます。一切の出来事が、自分の中の出来事なのです。これは夢を見ているのと、全く同じ構造です。一切の出来事は脳内現象です。自分は世界の外から、ただ眺めています。 「天上天下唯我独尊」とは、このことです。 この時、自分が世界なのですから、自分は存在するとも言えますし、存在しないとも言えます。 ほかの説明の仕方もありますが、これが一番分かり易いかと思います。

並木良和さんを彷彿とさせる明快さで分かり易い説明をありがとうございます。自分が世界であり、世界が自分であることに気づけば、三昧だということだと思いますが、「自分は世界の外から、ただ眺めています」という一文が理解できません。