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2021/12/3 19:29

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なぜ徳川幕府の参勤交代に不満が出て謀反が起こらなかったのですか? 九州、四国、中国地方の大名からすれば、徳川幕府に対してかなり不満が募ると思うのですが、300年間も徳川幕府が続いたのはなぜですか?

日本史 | 恋愛相談184閲覧

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質問者2021/12/3 23:43

回答ありがとうございました。

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そもそも家来である大名が主君である将軍がいる江戸に奉公しに行くのは当然の義務なんですよね。鎌倉時代にも大番役と言って御家人は鎌倉や京都の警護のために参勤していました。

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最初の頃は各大名は、幕府に忠誠心を示すために頻繁に江戸と国元を行き来し、多数の軍勢を引き連れていました。 しかし、たちまち大名たちは経済的に耐えられなくなり、幕府が制度として軽めに定めたのが参勤交代です。

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参勤交代は、上手な政策でしたね。 末期には、華美になりすぎないようと幕府から指示が出たぐらいです。 江戸に人質を置く(まあ、戦国時代から同盟に人質を置くのは普通でしたし)、 その人質と面会する。 行列で、他の藩と、実力を競わせる(内容は幕府はほとんど決めませんでした、派手になっていったのは、各藩の見栄の張り合いになったからです)。 ということです。 今川と徳川の同盟ですら、竹千代は、今川の人質だったわけですから。

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徳川将軍家ー800万 御三家合計ー150万石 親藩合計ー180万石 譜代合計ー300万 合計1430万石(5万石以下の大名は無視したからかなり雑な値) 外様 前田家120万石の14倍。 島津家72万石の20倍。 毛利家36万石の40倍。 幕末以外は勝ち目が無さすぎる。 幕末になると親藩や譜代も将軍の言うことを聞かなくなり(最後まで忠節を尽くしたのは会津松平家,桑名松平家)、旗本八万騎も時代が経ちすぎて使う武器も古く、軍の規律も時代が代わり、役に立たなくなっていた。

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江戸時代の大名は人質という意味で、正室を江戸の屋敷に住まわせていました。 大名からすれば、正室に会いに行く為に江戸に上り、将軍との謁見はついでのようなものです。 その為、不満はなかったとしなければ大名自身がヤバくなるので不満は言えませんでした。