明治の伽噺作家、巖谷小波の書いた日本昔噺の『牛若丸』は全くの想像の小説です。
まず、武蔵坊弁慶は当時、比叡山の僧兵でした。 その僧兵の中でも特に長刀が強く、都の繁華街であった寺町界隈で幅を利かせていました。
一方、九郎は鞍馬山での修行中に自分が源氏の血筋を引く直系だと知り、都で他流試合をし出した時期だったようです。
そして互いに存在を噂で知り、勝負をしようとしました。
互いが知る仲介者を介して、初めに会ったのは、現在の西洞院松原通りに在る五条天神神社の境内とされています。
ここでは顔合わせだけで、刃での戦いはされなかったようです。
この五条天神は、元々奈良の平城京から移築された神社で平安京造営と同時に794年に建設されました。
九郎と弁慶があった時期は、その敷地は現在の9倍ぐらいあった事が古地図で確認されています。
また五条大橋とは、松原通りの鴨川に中洲を経由してかかっていた橋ですが、昭和の初めに洪水で流出しています。
さて弁慶と義経の仲良し経緯ですが、これは推定で、九郎の源氏再興の気迫に、弁慶が撃たれたのでは無いかと考えます。
その根拠は、弁慶は和歌山の海賊一家の次男で、屋島の戦いの際には実兄の熊野水軍の長に援軍を求めに帰省しました。
(ここは実父の熊野別当・湛増では無い)
この時、九郎の思いを遂げさせたいと切に訴えたと白浜の洞窟(水軍の基地)に記録があります。
結局、弁慶が義経に従った経緯の記録はありませんので、推定する次第です。