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2022/5/18 20:18

1010回答

素朴な疑問です。 創価学会の本尊には運命を変える力があるのか?

宗教232閲覧

ベストアンサー

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとう。

お礼日時:5/23 7:56

その他の回答(9件)

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宗教とは善意ぶった詐欺師と思った方が得策です。 すべて己自身のみです。

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あるわけがありません。 学会の方って何か不幸に見えるのですよね。 拝んでも何もおきないし、拝まなくても、何もおきません。

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良くも悪くも学会に振り回される人生になりますので大いにあります!

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仏教では本来、無分別の法を説きます。日蓮大聖人は、『三世諸仏総勘文教相廃立』の中で、 「方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、無分別の法とは一乗の妙法なり」 一仏乗を説く妙法(法華経)とは無分別を説く法であると仰せです。創価学会や日蓮正宗では教えられておりませんが、詳しくはこちらをご参照ください。 「分別と無分別」 https://hokekyou.up-jp.com/category/mubunnbetu/ 『観心本尊抄』や『御本尊相貌抄』などの法理に即して南無妙法蓮華経を中心とする十界常住の相が図顕されていれば、修正が加わった御本尊であろうとも日蓮正宗から破門された団体の御本尊であろうとも等しく功徳は顕れると思います。 実際に私も学会にいた当時、そういった御本尊を拝んでもちゃんと功徳が顕れておりました。 大事なことは『生死一大事血脈抄』で仰せになられておりますが、 「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」 という事です。大聖人様が仰せの血脈とは日蓮正宗の法主のみに伝わる血脈相承などではありません。同抄の中で大聖人様が血脈と仰せなのは、 「釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」 とあるように、我等衆生(凡夫)と釈迦牟尼仏(仏)と多宝如来(如来)の三つが三身即一身であるということを理解して南無妙法蓮華経と唱えることを血脈と言うと明確に述べられております。 創価学会や日蓮正宗では、空や無我・無自性を学んでおりませんので空・仮・中の三諦が何たるかも正しく知り得ておりませんが、 我等衆生(凡夫)=凡夫の一念三千(仮諦) 釈迦牟尼仏(仏)=仏の一念三千(空諦) 多宝如来(如来)=真理の一念三千(中諦) のことです。『十八円満抄』の中で大聖人様が詳しくご説明なされております。 https://hokekyou.up-jp.com/roku-go/ 中諦については世親が悟りの理論として唯識として詳しく顕されております。『十八円満抄』の中でも中諦としての妙法蓮華経を唯識の九識をもって解説なされております。 その唯識の中に〝正聞燻習〟という教えがありまして、これが仏性の正体なのですが、「正しい教えを聞く」ことで生命(阿頼耶識)に薫習として刻まれていくという教えです。 無我を学んでいない人達は、物事に実体や本質があると思い込んでしまいます。実体や本質を説くのは外道の方です。仏法では〝縁起〟を説きます。縁起なるが故に無我です。この「無我・無自性」は竜樹の〝空〟を学ばないと正しくは理解出来ません。 世の中は常に流動的に変化し続けております。その変化し続けている世に於いて変わらずに有り続ける真実などないと説いているのが仏法です。 〝一念三千〟とは今一瞬における真理を導き出す法門です。 昔は正しいと思われていたことが今の世になってそれが間違いだったという事はよくあることです。また、正解というのはその人の心の中にあるもので、他人と比較したりするものでもありません。 境涯や境遇、人生経験、時代背景などによって正解は常に変わってきます。 ですからその一瞬一瞬における正解がその人の心の中にあると説くのが一念三千の法門の正しい解釈です。 その正しい教えを聞かずに、自分達が絶対に正しいと間違った教えを薫習されているから互いに醜い言葉で言い争っている現状があるのです。そういった他者を罵る行為は身口意の三業にあたりますので当然宿業として刻まれ、六根も濁っていき、自身のそういった悪しき行いにも次第に気づけなくなっていきます。 薫習については、こちらの動画で解りやすく解説せれていますのでご参照ください。 https://www.youtube.com/watch?v=xG9hWdPVXjA