歴史に「もしも」は無いですが戦国時代の武田家で起きた義信事件は日本史を大きく変えましたか?

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大きく変わったでしょうね。三国同盟が継続されるということは武田信玄の駿河侵攻は無いということになります。となれば信玄の目は西の美濃に向けられる。東と南は同盟者の北条と今川。北の上杉と戦えば損耗が激しすぎて得策ではない。織田信長も足利義昭を奉じての上洛くらいは出来たと思いますけど畿内の自領化は史実よりかなり遅れたと思います。更に今川、北条の後ろ楯がある武田を滅ぼすのも難しいのでは。となると本能寺の変が起こる可能性は低いでしょう。起こったとしても武田がいる以上織田信忠が岐阜城を留守にするとは考え辛いです。よって本能寺の変が起こっても織田信忠は存命し明智への弔い合戦に勝利し一枚岩となったでしょう。その中では羽柴秀吉の台頭もなく柴田勝家と羽柴秀吉の対立もなかったでしょう。その後は織田信忠と武田義信の間がどうなるか次第です。敵対して決戦が行われるか、緊張状態のまま代を重ねるか、あるいは手を結んで天下静謐を目指すかでしょう。

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日本の歴史は大きく変わっていたことでしょう。 もし、武田義信事件が起きていなければ、織田信長が永禄八(1565)年頃に妹の子:遠山氏を養女として諏訪勝頼に嫁がせることもなく、武田・織田同盟は存在しません。 すると、信長が足利義昭を奉じて上洛することも無かった事でしょう。 義信の背後に居たとされる飯富虎昌の成敗は永禄八(1565)年正月、義信の切腹は永禄十(1567)年十月十九日の事でした。 信玄は永禄十(1567)年八月、甲斐・信濃・上野の武士たち約二百四十名から、信玄に対して二心のない旨の起請文を出させています。 なお、義信は信玄と二度目の正室との間に産まれました。 この女性は、今川義元の斡旋で娶った公家:三条公頼の娘で、姉は室町幕府管領:細川晴元に嫁ぎ、妹は本願寺顕如光佐に嫁いでいました。

信長は、永禄八(1565)年初め、織田広良の尾張犬山城を攻略し、ようやく尾張平定を達成しました。 同年五月十九日、足利義輝が殺され、奈良興福寺一乗院門跡だった覚慶(義秋⇒義昭)が、七月二十八日夜に奈良を脱出しました。 そして、覚慶は近隣の大名や国人衆に自分を奉じて上洛するようにと御内書を送りました。 それを受けて承諾したのが、信長です。 勝頼と遠山氏娘との婚儀は、信長から提案したもので、信長は美濃攻略有利にする為と義昭を奉じて上洛する為に、武田家に婚儀を持ち掛け、武田家は義信問題の対処からこの婚儀を受けました。 もし、私が信玄で、義信事件が起こらなかったなら、こんな婚儀はしません。 そして、斎藤義龍が道三を討った直後に、斎藤家に同盟を申し入れます。